花沢城
静岡県焼津市にあった山城跡
花沢城(はなざわじょう)は、静岡県焼津市高崎にあった日本の城。駿河の守護・今川氏の西の守りとして造られた山城で、1568年(永禄11年)から始まった甲斐の武田信玄による駿河侵攻では、最終盤に激戦地となった[1]。
花沢城 (静岡県) | |
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花沢城(写真中央手前の山) | |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 今川氏または関口氏 |
築城年 | 1537年(天文6年) |
主な改修者 | 不明 |
主な城主 | 関口氏縁、大原資良 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 竪堀、曲輪 |
指定文化財 | 未指定 |
登録文化財 | 未登録 |
再建造物 | 石碑、解説板あり |
位置 | 北緯34度53分53.7秒 東経138度19分51.5秒 / 北緯34.898250度 東経138.330972度座標: 北緯34度53分53.7秒 東経138度19分51.5秒 / 北緯34.898250度 東経138.330972度 |
地図 |
概要
編集築城は、1861年(文久元年)に新宮高平が著した地誌『駿河志料』では明応・文亀年間(1492年~1503年)としているが根拠はなく、花倉の乱終結直後の1537年(天文6年)頃ではないかと考えられている[2]。今川氏家臣・関口氏禄が初代城主とされる。
花沢城の戦い
編集1568年(永禄11年)より駿河侵攻を開始した武田信玄は、1570年(永禄13年)正月、城主・大原資良(小原鎮実)以下今川家臣の立て籠もる花沢城に攻め入った。信玄は高草山中腹に布陣し、武田勝頼・武田信廉・長坂長閑らが攻撃を行った。城兵は14日間に渡り奮戦したが、同月27日に降参し開城、大原資良は遠江に退去したと伝わる[3]。
城跡
編集城跡は、焼津市北部の高草山から南東に派生した標高150メートルの丘陵に位置する。山頂部に幅29メートル×長さ65メートルの本曲輪と、幅28メートル×長さ66メートルの二ノ曲輪を置き、周囲の稜線にも腰曲輪や堀切を複数設けて南北450メートル規模の城塞を構築している[4][3]。
2018年(平成30年)から焼津市による「花沢城活用推進事業」が進められており、同年9月~10月には市教育委員会により初の発掘調査が実施され、本曲輪・二ノ曲輪間の大堀切が調査された。また一般市民が訪れて遺構を見やすいよう、遊歩道の敷設や雑木の伐採などの整備も行われている[1]。