花城長茂
花城 長茂(はなしろ(琉球語では、はなぐすく) ちょうも、1869年 - 1945年)は、琉球王国の唐手(現・空手)家。戦前における空手の大家の一人である。
系譜
編集経歴
編集1869年7月26日、花城長茂は、琉球王国首里邑に父花城長康・母許氏の三男として生まれる。唐名は明増盛。花城家は尚徳王の孫照屋親雲上長太を元祖とする首里士族である。花城は、本部朝勇、本部朝基、屋部憲通らとともに、糸洲安恒の最初期の弟子の一人であった。糸洲に入門した正確な時期は不明ながら、糸洲が唐手を教え始めたのは光緒5年(1879年)頃からと言われているので、花城がこの時から師事していたとすれば、10歳頃から唐手を習い始めた事になる。
1890年(明治23年)、花城は陸軍教導団に志願入団した。この時、応募者50名超のうち、合格したのはわずか3名に過ぎなかった。合格したのは、花城の他に、屋部憲通、久手堅憲由で、いずれも糸洲の門下であった。このため、軍部や県役所は、唐手に興味をもつようになったと言われている。花城はその後、日清、日露戦争に従軍した。
1905年(明治38年)、沖縄県立第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)で唐手の指導を行う。また、この年の8月、「空手組手」という組手研究に関する文章を記し、「空手」の文字をはじめて使用した。これは、船越義珍が唐手を空手に改名するよりも、30年ほど前のことである。
1919年(大正8年)、真和志村村長に就任。1926年(昭和元年)[元号要検証]には、本部朝勇、摩文仁賢和、知花朝信らとともに、沖縄唐手倶楽部に参加した。1934年(昭和9年)、安里で空手を指導。1937年(昭和12年)には、空手道基本型の制定にかかわった。花城長茂は、1945年(昭和20年)、羽地村仲尾次にて死去した。享年76。ジオン(慈恩)の型を得意とした。
弟子
編集参考文献
編集- 仲宗根源和 編:『空手道大観』(緑林堂書店、1991年)。
- 首里『明姓家譜(小宗)』。