舩橋求己
舩橋 求己(ふなはし もとき、1911年(明治44年)8月14日[1] - 1984年(昭和59年)2月4日[1])は、日本の政治家。3期10年にわたり京都市長を務める。全国革新市長会副会長。
舩橋求己 ふなはし もとき | |
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生年月日 | 1911年8月14日 |
出生地 | 岡山県岡山市 |
没年月日 | 1984年2月4日(72歳没) |
死没地 | 京都府京都市 |
出身校 | 京都帝国大学経済学部 |
前職 |
京都市役所職員 京都市助役 |
所属政党 | 無所属 |
第22代 京都市長 | |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1971年4月 - 1981年7月31日 |
来歴
編集岡山県岡山市出身[1]。旧制第二岡山中学校(現;岡山県立岡山操山中学校・高等学校)、1934年京都帝国大学経済学部を卒業後、京都市役所に入庁[1]。研修時代には交通局に所属し、市電の運転も行った。その後は住宅局、民生局、水道局(現:上下水道局)の各局長などを経て、1967年助役に就任[1]。1971年の京都市長選に日本社会党と日本共産党の推薦を得て出馬し、前民社党代議士の永末英一らを破り初当選を果たす。
当選時は、同じく革新系の京都府知事蜷川虎三も「府市協調を歓迎する」と発言したものの、1975年の市長選では社会党の妨害によりこれまでの社共共闘が崩壊。社公民の推薦と共産党の支持のほか、「再び市政の担い手となることを希望する」として自民党も支援を打ち出したことから、保革5党相乗り体制により増田眞一、高田がんをやぶり再選。この時の選挙は京都名物に擬えて五色豆選挙と呼ばれた。1979年の市長選でも従来の5党に新自クを加え、社民連以外の6党による支援を背景に、新顔の幡新守也を破り3選。
3期目途中の1981年5月、自宅においてクモ膜下出血で倒れ、同年7月引退を表明する[1]。1984年2月4日、肺炎のため京都市中京区の京都市立病院で死去。72歳。
脚注
編集参考文献
編集- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。