能海 寛(のうみ ゆたか、1868年慶応4年、同年に明治改元〉 - 1903年〈明治36年〉?)は、チベットを探検した真宗大谷派の僧、仏教学者

能海寛

経歴

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1868年(慶応4年)5月18日、島根県那賀郡波佐村(現在の浜田市金城町)長田にある浄蓮寺住職の能海法憧の次男として生まれる。1877年(明治10年)、10歳の時に広島へ出て進徳教校(現在の崇徳中学校・高等学校)で3年間漢籍などを学び、11歳の時得度し宗門に入る。その後郷里に戻り養父謙信から後継住職としての教育を受ける。1885年(明治18年)9月、18歳の時に再び広島へ出て進徳教校へ入学するが、4ヶ月後に退学し、京都へ出て、西本願寺普通教校(現在の龍谷大学の前身の一部)で学ぶ。

1890年(明治23年)慶應義塾予科(現在の慶應義塾大学)に転じ、ウォルター・ウェストンに学ぶ。さらに翌年、哲学館(現在の東洋大学)に入学。哲学館では、南条文雄に多大な影響を受ける。

1893年(明治26年)『世界に於ける佛教徒』を自費出版し、その中で、チベット大蔵経の原典入手の重要性、チベット探検の必要性を説いている。

1898年(明治31年)に結婚するも、同年11月、上海に向け神戸港を出港する。

1899年(明治32年)8月、大谷大学教授の寺本婉雅とともに、四川省の巴塘(パタン)からのチベット入りを試みるも、身の危険のため断念する。

1900年(明治33年)8月、新疆省(現在の新疆ウイグル自治区)からのチベット入りを試みるが、やはり、難路と危険によって引き返す。

1901年(明治34年)4月18日、今度は雲南省の大理府から「今からチベットに入るため音信不通となる」という内容の手紙を発信した後、消息を絶つ。

その後、伊東忠太一行がミャオ族の建築物研究に雲南省のチベット国境付近に赴いた際の調査により、能海は1903年(明治36年)ごろに同地で土賊に襲われ死去したらしいということが判明した[1]

ただ、『金剛般若経』や『金光明経』などの蔵本(チベット語経典)や仏像類などの資料を日本に送っている。それらの資料は、大谷大学と金城町歴史民俗資料館に所蔵されている。

1982年昭和57年)、生家浄蓮寺の境内に顕彰碑が建立されている。また、1986年(昭和61年)以降、浄蓮寺から、自筆の地図、スケッチや、日記などを含む多くの新出資料が発見された。

著作

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  • 『世界に於ける仏教徒』哲学書院、1893年11月。 NCID BA9182018X全国書誌番号:40044098 
  • 『能海寛遺稿』能海寛追憶会、1917年4月。 NCID BN13195917全国書誌番号:43019261 全国書誌番号:60005940 

著作集

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文化財

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  • 能海寛関係資料(浜田市指定文化財)2008年(平成20年)7月23日指定[2]

脚注

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  1. ^ 長沢和俊『日本人の冒険と探検』、白水社、1973年、306頁
  2. ^ 能海寛関係資料(浜田市指定文化財)”. 浜田市. 2023年12月31日閲覧。

参考文献

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  • 隅田正三『チベット探検の先駆者・求道の師 能海寛』、波佐文化協会、1989年
  • 江本嘉伸『能海寛 チベットに消えた旅人』、求龍堂、1990年、ISBN 4763099086
  • 江本嘉伸『西蔵漂泊―チベットに魅せられた十人の日本人〈上・下〉』、山と溪谷社、1993-94年、ISBN 4635280233&ISBN 4635280241
    「第1章 帰ってこなかった学僧」、著者は読売新聞編集委員ほか。下記は改訂再刊
    • 『新編 西蔵漂泊 チベットに潜入した十人の日本人』山と溪谷社〈ヤマケイ文庫〉 2017年 ISBN 4635047997
  • 江本嘉伸(原作・シナリオ) 南一平(画) 『まんが 西蔵探検家 能海寛』、波佐文化協会、2002年
  • 日本人チベット行百年記念フォーラム実行委員会(編) 『チベットと日本の百年―十人は、なぜチベットをめざしたか』、新宿書房、2003年、ISBN 4880082821
  • 長澤和俊『日本人の冒険と探検』、白水社、1973年、新装版1998年、304-307頁
  • 金子民雄「能海寛のたどった道」(『ヒマラヤ学誌』第9号、京都大学ヒマラヤ研究会、2008年3月
  • 将口泰浩『チベットからの遺言』、産経新聞出版、2008年

関連項目

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外部リンク

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