美詩える
美詩 える(みし える、1953年11月10日[1][2] - )は、主に1970年代に活動していた歌手、タレント。元宝塚歌劇団花組の男役[3]。
美詩 える | |
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出生名 | 根岸 裕子 |
生誕 | 1953年11月10日(71歳) |
出身地 | 日本・神奈川県横浜市 |
ジャンル | フォークソング |
職業 | シンガーソングライター、タレント |
活動期間 | 1971年 - |
レーベル | |
事務所 |
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本名:根岸 裕子[1]。神奈川県横浜市出身[2]。公称していた身長は162cm(1975年当時)[1]。ニックネームはクペ[1]。かつて所属していた事務所は「ミュージックポスト」(1975年当時)[2][1]。
来歴・人物
編集父は俳優、漫才師の南道郎。4人きょうだいの第2子だが[1]、母親が同じなのは兄だけで、二人の妹は共に母親が異なる(長妹は父の2回目の結婚の時の、次妹は3回目の結婚の時の子)。次妹(三女)は劇団東俳に所属していたタレント・根岸未来。6歳の時からモダンバレエをやっており、コンクールには常に出場を決め、小学5年生の時には文部大臣賞を受賞している[1]。小学生時代、将来なりたかった職業は薬剤師、医師だったという[1]。
1969年、宝塚音楽学校入学。
1971年、宝塚歌劇団に57期生として入団[3]。入団時の成績は12番[3]。花組公演「花は散る散る/ジョイ!」で初舞台[3]。
1972年、花組に配属[3]。同年より関西テレビ『ザ・タカラヅカ』に「バンビーズ」の一員として出演[2][1][4]。
1973年6月29日付で宝塚歌劇団を退団[3]。
退団後はラジオのDJとして独立し、主に大阪を中心に活動[2][1][4]。独立のきっかけを与えたとされている関西テレビディレクターの林宏樹は、この当時の当人の印象として「素直さと頭の回転の速さがあるが、人一倍感受性が強いために宝塚ではどうかなと思っていたが、あのナイーブさが生きてくれば、彼女の世界は無限だと思う」と話し、独立するにあたって友人らに紹介したという[1]。
その後フォークコンサートの司会をしていた時に知り合った諸口あきらやフォークグループの三輪車らに「音楽の才能があるから」として勧められ、フォークソングのシンガーソングライターに転身[1][4]。1975年2月21日、自ら作詞・作曲したシングル『おとずれ』(ポリドール)で歌手デビュー[4]。この曲は、小説や漫画の主人公になり切って作ったという[1]。この曲はまず大阪から人気が出て、その後全国区へ広がっていったとされている[2]。
ラジオでの活動も、大阪中心から『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)の初代アシスタントなど全国区の番組にもレギュラー出演。
得意なスポーツは水泳で、特級の腕前があったとのこと[2]。趣味は映画を観ること、寝ること[2]。また、小学生の頃から散文的な詩を書きためており、1975年の時点で200を超える詩集があったとのこと[2]。人生の哲学者のようなもの、メルヘン的な夢を綴ったものが多いと紹介されている[2]。
ディスコグラフィー
編集シングル
編集発売日 | レーベル | 面 | タイトル | 作詞 | 作曲 | 編曲 | 品番 |
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1975年2月21日 | ポリドール | A | おとずれ | 美詩える | 森岡賢一郎 | EP:DR-1917 | |
B | 恋人達 | 田川昭夫 | 山崎稔 |
([5])
出演
編集ラジオ
編集- (秘)の話はあのねのね(ラジオ大阪)[2]
- サウンド・サウンド日曜版(ラジオ大阪)[2]
- 明治の明治のハイハイハイ(ニッポン放送、あいざき進也と共演)[2]
- 笑福亭鶴光のオールナイトニッポン(ニッポン放送、初代アシスタント)
- シャナナぎんざ 何がなんだか若ラジオ(ニッポン放送、1975年4月〜1976年10月2日)
テレビ
編集脚注
編集出典
編集参考文献
編集- 監修・著作権者:小林公一『宝塚歌劇100年史 虹の橋 渡りつづけて(人物編)』阪急コミュニケーションズ、2014年4月1日。ISBN 978-4-484-14601-0。