細迫兼光
細迫 兼光(ほそさこ かねみつ、1896年11月28日[1][2] - 1972年2月11日[2][3])は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(5期)。弁護士。
経歴
編集山口県厚狭郡厚西村(のち厚狭町→山陽町、現・山陽小野田市)出身。細迫家は長州藩寄組熊谷氏の一族で、陪臣ながら厚狭郡有数の名家であった。旧制山口中学校(現山口県立山口高等学校)時代は岸信介が一期先輩であった。第三高等学校を経て東京帝国大学に入学後、新人会に入る[2]。1922年卒業[1][2]。卒業後は弁護士となる[1][2]。労働農民党に入り、書記長となり[1]、1929年新労農党が結成されると書記長となったが、翌年除名される。1932年治安維持法により検挙される。その後は故郷に帰り、厚狭町議、小野田市長、山口県弁護士会副会長などを務める[3]。
戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙で山口県から立候補して当選する[2]が、間もなく公職追放となり[2]、一時政界を去る。追放解除後の1952年の総選挙で山口1区から日本社会党左派公認で立候補して落選[4]、翌1953年の総選挙で復帰した[4]。衆議院議員は1966年まで務め[2]、この間社会党中央執行委員、国会対策委員長、山口県連会長などを務めた[3]。1972年死去。
脚注
編集参考文献
編集- 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。ISBN 9784816918056
- 『人としての途を行く 回想 細迫兼光』細迫兼光回想録編纂会
- 朝日新聞選挙本部編『朝日選挙大観』朝日新聞社、1997年。
公職 | ||
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先代 広沢豊作 |
山口県旧小野田市長 官選第2代:1942年 - 1945年 |
次代 中野暢 |