秋元志朝
江戸時代後期の大名。出羽山形藩4代藩主、上野館林藩初代藩主。館林藩秋元家10代。毛利広鎮の八男。左衛門佐、従四位下、但馬守、刑部大輔、贈従三位
秋元 志朝(あきもと ゆきとも)は、江戸時代後期の大名。出羽山形藩4代藩主、後に上野館林藩初代藩主。館林藩秋元家10代。
時代 | 江戸時代後期(幕末) - 明治時代 |
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生誕 | 文政3年3月8日(1820年4月20日) |
死没 | 明治9年(1876年)7月26日 |
改名 | 撰佐(幼名)→志朝 |
墓所 |
東京都台東区上野の護国院→多磨霊園→谷中霊園 群馬県前橋市の光厳寺 |
官位 |
左衛門佐、従四位下、但馬守、 刑部大輔、贈従三位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂 |
藩 | 出羽山形藩主→上野館林藩主 |
氏族 | 毛利氏→秋元氏 |
父母 |
父:毛利広鎮、母:秋元永朝娘・喜哉 養父:秋元久朝 |
兄弟 |
雅太郎、毛利広衷、鋭三郎、毛利寿粛、堅田元琦、寧子(福原熙賢正室)、 福原元僴、毛利元蕃、勅子(毛利元美室)、志朝、男子、毛利元徳、 京極高聡正室(後山崎義柄正室)、 松野助永室など多数 |
妻 |
正室:上杉斉定娘・良 継室:本多忠考娘・秀 |
子 |
女子、銑次郎、甚九郎、孫三郎 養子:礼朝(太田資始五男) |
生涯
編集文政3年(1820年)3月8日、周防国徳山藩8代藩主・毛利広鎮の八男として生まれる[1]。母が山形藩の先々代藩主・秋元永朝の娘で、秋元家と縁戚関係にあったことから、天保2年(1831年)に叔父の3代藩主・秋元久朝の養子となる。天保10年(1839年)4月13日、久朝の隠居により家督を継ぐ。
弘化2年(1845年)11月30日、上野館林藩に移封される。安政2年(1855年)の安政の大地震を契機にして岡谷瑳磨介を登用して藩政改革を断行し、江戸詰の家臣の屋敷を館林に移して藩主権力の強化を図り、学問所である造士書院(求道院)を創設した。元治元年(1864年)7月、禁門の変が起こると、毛利家の出身だったため幕府から内通の嫌疑を受け、10月27日に養子の礼朝に家督を譲って強制的に隠居させられることとなった。
しかしその後も藩政の実権を握り、長州征伐では幕府・朝廷・毛利家の仲介役を務めている。明治9年(1876年)7月26日、死去。享年57。
明治29年(1896年)5月20日に従三位を追贈された。
経歴
編集系譜
編集父母
正室、継室
子女
養子