神田山陽 (初代)

明治時代から昭和期にかけて活躍した講談師

初代神田 山陽(本名は石村利兵衛[1]1897年2月4日 - 1948年3月29日[1]3月30日[2][注釈 1])は、明治時代から昭和期にかけて活躍した講談師。

初代 神田かんだ 山陽さんよう
本名 石村 利兵衛
生年月日 1897年2月4日
没年月日 (1948-03-29) 1948年3月29日(51歳没)
出身地 日本の旗 日本神奈川県横浜市
師匠 3代目神田伯山
弟子 馬場光陽
名跡 1.神田伯英
(1913年 - 1922年)
2.初代神田山陽
(1922年 - 1948年)
活動期間 1913年 - 1948年

神奈川県横浜市に生まれ、1913年3代目神田伯山に入門し、伯英と名乗る[1]1922年、山陽と改名[1]。1932年、講談席一の亭の経営を任され、山陽亭と改めるが、翌年には色物席に鞍替えする[1]。1946年、東京講談組合の副頭取となる[1]。1948年、伊東温泉で肺炎のため死去[1]。51歳没。

「神道徳次郎」「村井長庵」「お春殺し」などを得意とした[1]。山陽が得意とした「生きる悲哀」は神田派の女流講談師によく読まれ、「天明白浪」は神田松鯉一門でよく読まれている[1]

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 吉田修『東都講談師物語』中央公論事業出版、2017年6月、160-164頁。 
  2. ^ 神田 山陽(初代)』 - コトバンク

注釈

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  1. ^ 「新撰 芸能人物事典 明治~平成」では、没年月日は1948年3月30日と記載。