磯野 長蔵(いその ちょうぞう、旧姓・三島[1][2]1874年明治7年〉3月12日 - 1967年昭和42年〉6月25日[1])は日本の実業家明治屋社長、会長を務めたほか、キリンビール設立発起人となり、キリンビール社長や会長を歴任。同社をビール業界トップとした。

人物

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鳥取県倉吉市河原町の呉服屋、三島久平・なをの次男として生まれる[3]。勉強がよくでき、1883年、9歳のときに倉吉の戸長を務めた松本家を継ぐため松本仁平の養子となる。

鳥取県尋常中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)の授業料免除優待生を経て上京。高等商業学校予備門(現・日本大学第三中学校・高等学校)で1年間の浪人生活を送り、高等商業学校(現・一橋大学)入学。1897年に7番の成績で卒業。学資は実父の三島が出した[3]

高等商業学校を卒業後、明治屋創業者の磯野計米井源次郎が創立した貿易商社磯野商会に入社。1902年、磯野の長女・菊と結婚。松本家の養嫡子だったため、長蔵の妹が松本家を継ぎ、長蔵は隠居したうえで磯野家に婿入りするという手順を踏んだ[3]。磯野商会は辞め、1903年、明治屋副社長に就任。翌年、ビジネスを学ぶためイギリスに留学し、1906年に帰国[3]

1907年、麒麟麦酒設立にともない、米井らとともに設立発起人の一人となる。1916年軽井沢三笠ホテルを買収した明治屋は鎌倉海浜ホテルの経営も始め、長蔵が取締役社長に就任し、同年ビール市場視察のため外遊[4][5]1919年、米井の死去にともない、明治屋三代目社長に就任[4]

明治屋社長を務めながら、1920年に麒麟麦酒取締役、1927年に専務となり、翌年ビール業界視察のため外遊[4]1942年に同社社長[6]1951年に同会長に就任し[4]1962年まで務め、麒麟麦酒をビール業界トップとした[7]1958年には明治屋の会長に就任[4]

明治屋及び麒麟麦酒の経営で財を成し、1954年に故郷倉吉の苦学生を支援する三松奨学育英会を設立[4]、1962年には母校一橋大学に磯野研究館を寄贈。1964年に勲三等瑞宝章を受章し、1967年に没した[4]

1978年、初代倉吉市名誉市民[8]如水会理事なども務めた[9]。趣味は[2]。宗教は浄土宗[2]。住所は東京港区麻布広尾町[2]

伝記等

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  • 三宅勇三『噫、偉なる哉、磯野長蔵翁』春秋社、1967年8月。 NCID BN06314415全国書誌番号:67008117 
  • 麒麟麦酒明治屋 編『追悼録 磯野長蔵』麒麟麦酒・明治屋、1967年10月。 NCID BN13483911全国書誌番号:68010992 

脚注

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  1. ^ a b 磯野長蔵とはコトバンク。2020年11月30日閲覧。
  2. ^ a b c d 『人事興信録 第15版 上』イ58頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年11月30日閲覧。
  3. ^ a b c d 森田克徳「わが国ビール産業の黎明と大日本麦酒の成立」『経営と情報』第13巻第2号、静岡県立大学経営情報学部、2001年3月、17-29頁、ISSN 09188215NAID 110004614543 
  4. ^ a b c d e f g (株)明治屋『明治屋百年史』(1987.12)
  5. ^ 鎌倉海浜ホテルホテルラベル
  6. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、112頁。 
  7. ^ 朝日新聞1998年2月26日
  8. ^ 倉吉市名誉市民”. 倉吉市. 2022年8月11日閲覧。
  9. ^ 官報 1925年10月27日

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第15版 上』人事興信所、1948年。

外部リンク

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先代
米井源次郎
明治屋社長
第2代:1919年 - 1958年
次代
磯野計蔵
先代
伊丹二郎
キリンビール社長
第2代:1942年 - 1951年
次代
川村音次郎