石田武太郎
日本の新聞記者
石田 武太郎(いしだ たけたろう、1890年 - 1934年)は、日本の新聞記者、政治家。
中外商業新報政治部長[1]、編集局長[2]、参事[3][4]、東京府荏原郡碑衾町会議員・同議長[5]などをつとめた。子にNHKアナウンサーの石田武、孫に音楽家の石田桃子や俳優の石田純一、曽孫に俳優のいしだ壱成がいる。
経歴
編集大阪府南河内郡富田林町(現在の富田林市)出身[2]。石田家の分家に生まれた[2]。1915年、早稲田大学大学部政治経済学科を卒業し[1]、中外商業新報(現・日本経済新聞)に入社した[2]。政治部の記者として働き、まもなく電話交換手の女性と結婚した[2]。
31歳の時、ワシントン会議の特派員に抜擢され[2]、会議の後もアメリカ合衆国に残り2年間の特派員生活を送った[2]。その後日本に戻り、中外商業新報の政治部長となり、さらに編集局長まで昇進した[2]。
42歳の頃に新聞記者を辞め、出身地の大阪から衆議院議員選挙に立候補した[2]。犬養毅が総裁を務めていた与党・立憲政友会(当時)に所属していたが[2]、落選に終わり[2]、このことで財産のほとんどを失った[2]。さらにその2年後、肝硬変を発症して44歳で死去した[2]。
人物
編集家族・親族
編集- 石田家
脚注
編集- ^ a b c 『早稲田大学校友会会員名簿 大正14年11月調』150頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年4月6日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『ファミリーヒストリー』(2015年1月16日放送)。
- ^ a b 『日本紳士録 第34版』東京イ、ヰの部81頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年4月8日閲覧。
- ^ a b 『日本紳士録 第35版』東京イ、ヰの部80頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月23日閲覧。
- ^ 『碑衾町誌 市郡合併記念』150頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年1月10日閲覧。
- ^ 『日本人にとってキャリアとは 人脈のなかの履歴』103頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年12月22日閲覧。
- ^ 『東京・城南職業別電話名鑑 昭和7年10月現在 改訂第4版』306頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年12月22日閲覧。
参考文献
編集- 『早稲田大学校友会会員名簿 大正14年11月調』早稲田大学校友会、1915-1925年。
- 交詢社編『日本紳士録 第34版』交詢社、1930年。
- 交詢社編『日本紳士録 第35版』交詢社、1931年。
- 東京府荏原郡碑衾町編『碑衾町誌 市郡合併記念』碑衾町、1932年。
- 『東京・城南職業別電話名鑑 昭和7年10月現在 改訂第4版』大東京通信社、1932年。
- 浜口恵俊『日本人にとってキャリアとは 人脈のなかの履歴』日本経済新聞社、1979年。