石川 光忠(いしかわ みつただ)は、尾張藩家臣、石川(石河)家初代当主。

 
石川光忠
時代 江戸時代前期
生誕 文禄3年(1594年
死没 寛永5年9月18日1628年10月15日
改名 太郎八(幼名)→光忠
別名 市正(通称)
主君 徳川義直
尾張藩
氏族 美濃石川氏
父母 父:石川光元、母:お亀の方
兄弟 異母兄弟:清平、慶光院(脇坂安元室)
異父兄弟:竹腰正信松平仙千代徳川義直
正室:阿部正興の娘
正光宗直忠昌
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生涯

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文禄3年(1594年)、豊臣家臣・播磨国龍野城石川光元の子として生まれる。光元は慶長5年(1600年関ヶ原の戦いで西軍に与して改易され、翌慶長6年(1601年)に没した。

慶長8年(1603年)に父の光元のため京の妙心寺に大雄院を建立したが、この土地は叔父の石川貞清が寄進している。また、開祖となった僧・慧南玄譲の招請も10歳の光忠に代わり貞清が行っており、両者の親しい関係が窺える。

母が徳川家康の側室となり松平仙千代徳川義直を産んだこともあり、慶長13年(1608年)に召し出され、慶長15年(1610年美濃国摂津国に合計1万300石の知行を賜る。慶長17年(1612年)、家康の命で尾張藩主の異父弟徳川義直に付属し、名古屋城代となる。異父兄の竹腰正信も義直に配属させられている。大坂の陣の際に、義直に従い出陣した。

寛永5年(1628年)9月18日死去。享年35。家督を長男の正光が相続した。次男宗直は2000石、三男忠昌は1000石の分知を受けて分家した。

参考文献

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  • 『名古屋市史』
  • 『尾藩諸家系譜』