石丸 藤吉(いしまる とうきち、1914年大正3年)7月25日 - 1991年平成3年)11月21日[1])は、佐賀県佐賀市[1]出身のプロ野球選手内野手)。

石丸 藤吉
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 佐賀県佐賀市
生年月日 1914年7月25日
没年月日 (1991-11-21) 1991年11月21日(77歳没)
身長
体重
167 cm
59 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1937年
初出場 1937年5月19日
最終出場 1951年7月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

実弟は同じくプロ野球選手の石丸進一[2][1]。また、孫に米マイナーリーグ投手として活躍した石丸泰輔(元・親和交通株式会社取締役副社長)がいる。

来歴・人物

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佐賀商業立教大学(中退)、門司鉄道局を経て1937年(昭和12年)、名古屋軍に入団[1]。プロ野球に入った理由は、父親が子供の教育資金の調達や株の失敗で膨らんだ借金を返済するためであったという[3]。その年の春のシーズンで、打率.276を記録して打撃十傑の9位に入り、主に二塁手として活躍した。だが、1938年(昭和13年)の春のシーズンが終わると同時に召集されて中国戦線に向かい、一旦は退団することとなった。しかし、1941年(昭和16年)に再び名古屋軍に復帰。この年、名古屋軍に入団した弟の進一と共に3年間プレーすることになる。 戦後は1951年(昭和26年)に松竹助監督兼任として1年だけ現役に復帰[1]

現役引退後は松竹ロビンスオーナーの田村駒治郎が引退後の選手の生活のために設立したタクシー会社・ロビンス交通の専務を経て、1953年(昭和28年)、自らタクシー会社の親和交通株式会社(現:親切タクシー)を設立し、社長に就任した[1]

1991年平成3年)11月21日死去。享年77。

かつて同じ名古屋軍に在籍していた小鶴誠によれば、普段は弟の進一とは仲が良かったという。だが、弟がプロ1年目の時はよく二遊間を組んでいたものの、あまり息が合わなかったがために試合中によく喧嘩をしていたという。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1937 名古屋 33 148 123 24 34 3 0 0 37 5 3 -- 2 -- 23 -- 0 7 -- .276 .390 .301 .691
1937 49 226 197 20 43 2 4 1 56 7 2 -- 1 -- 26 -- 2 18 -- .218 .316 .284 .600
1938 20 87 72 6 14 0 0 0 14 8 3 -- 3 -- 12 -- 0 6 -- .194 .310 .194 .504
1941 35 138 115 7 11 2 0 0 13 6 2 -- 5 -- 18 -- 0 12 -- .096 .218 .113 .331
1942 105 463 412 36 72 7 1 0 81 16 12 5 8 -- 43 -- 0 25 -- .175 .253 .197 .450
1943 83 376 303 32 52 9 0 0 61 6 11 9 2 -- 71 -- 0 26 -- .172 .329 .201 .530
1951 松竹 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 -- 0 0 0 ---- ---- ---- ----
通算:6年 326 1438 1222 125 226 23 5 1 262 48 33 14 21 -- 193 -- 2 94 0 .185 .297 .214 .511
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

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  • 12 (1937年、1941年 - 1943年)
  • 2 (1938年)
  • 40 (1951年)

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b c d e f プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、45ページ
  2. ^ “特攻隊員として戦死した2人の選手や景浦將… 戦後74年、戦火に散ったプロ野球選手”. Full-count. (2019年8月15日). https://full-count.jp/2019/08/15/post502064/ 2020年3月12日閲覧。 
  3. ^ 後に、弟の進一も同じ理由で名古屋軍に入団し、兄弟二人で借金を完済している。石丸進一の項を参照。

外部リンク

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