盛厚王
盛厚王(もりひろおう、1916年〈大正5年〉5月6日 - 1969年〈昭和44年〉2月1日)、または東久邇 盛厚[注釈 1](ひがしくに もりひろ)は、日本の旧皇族、照宮成子内親王の夫。大日本帝国陸軍軍人。東久邇宮稔彦王第1王子。母は、明治天皇第9皇女の聰子内親王。皇籍離脱前の身位は王で、皇室典範における敬称は殿下。弟に師正王、粟田彰常侯爵、多羅間俊彦がいる。大日本帝国陸軍での階級は陸軍少佐。勲等は勲一等。なお、盛厚王自身は「東久邇宮」を継承してはいないが、慣例に従い「東久邇若宮」と呼ばれることもあった[1]。明治天皇は祖父、大正天皇は伯父、昭和天皇は義父(妃成子内親王の父)であり母方の従兄にもあたる。また香淳皇后は義母(妃成子内親王の生母)であり父方の従姉にもあたる。第125代天皇・明仁(上皇)は従甥にあたり、第126代天皇・徳仁(今上天皇)・秋篠宮文仁親王・黒田清子の伯父(伯母の夫)。
東久邇 盛厚 (盛厚王) | |
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東久邇宮 | |
1943年、成子内親王との結婚の儀に際して撮影。 | |
続柄 | |
全名 | 東久邇 盛厚(ひがしくに もりひろ) |
身位 | 王→(皇籍離脱) |
敬称 | 殿下→(皇籍離脱) |
出生 |
1916年5月6日 |
死去 |
1969年2月1日(52歳没) |
埋葬 |
日本・東京都文京区大塚 豊島岡墓地 |
配偶者 | 照宮成子内親王(王妃成子内親王) |
寺尾佳子 (1927年 - 2011年) | |
子女 |
東久邇信彦(信彦王) 高木文子(文子女王) 壬生基博(東久邇秀彦) 東久邇眞彦 東優子 寺尾厚彦 東久邇盛彦 |
父親 | 東久邇宮稔彦王 |
母親 | 稔彦王妃聰子内親王 |
役職 | 大日本帝国陸軍(最終階級:少佐) |
称号:王 | |
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生涯
編集学習院、陸軍士官学校予科を経て1937年(昭和12年)6月陸軍士官学校を卒業した。同年8月陸軍砲兵少尉に補任され、野戦重砲第1連隊附を命ぜられ、陸軍将校として勤務する。1939年(昭和14年)、同連隊の第1中隊長時代にノモンハン事件に動員され、7月18日に戦場に着任したが、戦況が悪く、宮内省の属官が戦死したことなどもあり、7月27日には8月の定期異動を待たずに戦場離脱に至った[2]。1943年(昭和18年)10月13日、昭和天皇第1皇女の照宮成子内親王と結婚した。その後、陸軍砲工学校、陸軍大学校を経て、第36軍情報参謀を任ぜられるが、任務中に終戦を迎えた。1946年(昭和21年)、一般受験生に混じって東京大学を受験したが不合格となり、「昔なら無条件入学なのに」と話題となる[3]。1947年(昭和22年)10月14日に皇籍を離脱し(旧皇族)、「東久邇 盛厚(ひがしくに もりひろ)」と称することとなり、その直後に公職追放となる[4]。皇籍離脱後、今度は聴講生として東京大学経済学部に3年間学び[3]、民間人として再出発する。北海道炭礦汽船社長室勤務の後帝都高速度交通営団監事等を務めた。また、1959年(昭和34年)には日本狆クラブ会長に就任する。1人目の妻である照宮成子内親王(東久邇成子)との間に5子(3男2女)がいるが、1961年(昭和36年)7月23日に死別した。その後、寺尾幸吉の長女・寺尾佳子と再婚し、2子(2男)がある。1969年(昭和44年)2月1日、肺癌のため、死去した。52歳没。
栄典
編集系図
編集(20/23)伏見宮邦家親王 | (1)山階宮晃親王 | (2)山階宮菊麿王[7] | (3)山階宮武彦王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)梨本宮守脩親王 | (1)久邇宮朝彦親王 | (1)賀陽宮邦憲王 | (2)賀陽宮恒憲王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)久邇宮邦彦王 | (3)久邇宮朝融王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)梨本宮守正王 | 香淳皇后 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上皇明仁 | 天皇徳仁 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(21)伏見宮貞教親王 | (1)朝香宮鳩彦王 | 昭和天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)東久邇宮稔彦王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)竹田宮恒久王 | (2)竹田宮恒徳王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)北白川宮能久親王 | (3)北白川宮成久王 | (4)北白川宮永久王 | (5)北白川宮道久王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小松輝久 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)北白川宮智成親王 | (25)伏見宮博恭王 | 博義王 | (26)伏見宮博明王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(22/24)伏見宮貞愛親王 | 邦芳王 | (4)華頂宮博忠王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(6)閑院宮載仁親王 | (7)閑院宮春仁王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)東伏見宮依仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
依仁親王妃周子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
数字は代目。橙色背景は皇籍離脱した時の11宮家当主。※東伏見宮依仁親王は離脱前に薨去。
明治天皇 (1852-1912) 在位 1867-1912 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大正天皇 (1879-1926) 在位 1912-1926 | 竹田宮恒久王 (1882-1919) | 昌子内親王 (1888-1940) | 北白川宮成久王 (1887-1923) | 房子内親王 (1890-1974) | 朝香宮鳩彦王 (1887-1981) | 允子内親王 (1891-1933) | 東久邇宮稔彦王 (1887-1990) | 聡子内親王 (1896-1978) | 昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | 竹田恒徳 (1909-1992) | 永久王 (1910-1940) | 朝香孚彦 (1912-1994) | 盛厚王 (1916-1969) | 成子内親王 (1925-1961) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上皇 (明仁) (1933-) 在位 1989-2019 | 竹田恒正 (1940-) | 北白川道久 (1937-2018) | 朝香誠彦 (1943-) | 東久邇信彦 (1945-2019) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今上天皇 (徳仁) (1960-) 在位 2019- | 竹田家 | (男系断絶) | 朝香家 | 東久邇家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
子女
編集成子妃との間に5子。
- 第1王子:信彦王(1945年3月10日 - 2019年3月20日)。
- 第1王女:文子女王(1946年12月22日 - ) - 大村和敏、次いで高木代々吉夫人。
- 次男:秀彦(1949年7月29日 - ) - 壬生基博(みぶ もとひろ)として養子入りし改姓名、壬生家第12代当主、山階鳥類研究所理事長。
- 3男:眞彦(1953年2月1日 - )。
- 次女:優子(1954年 - ) - 東作興夫人。
佳子夫人(旧姓:寺尾)との間に2子。
- 4男:厚彦(1966年 - ) - 寺尾家養子。
- 5男:盛彦(1967年6月13日 - )。
年表
編集1916年 5月6日 | 誕生 | |
1936年(昭和11年)5月5日 | 貴族院議員(皇族議員)[8] | |
1937年(昭和12年)6月 | 陸軍士官学校卒業(49期) | |
1937年(昭和12年)8月12日 | 勲一等旭日桐花大綬章 | |
1937年(昭和12年)8月21日 | 陸軍砲兵少尉・野戦重砲第1連隊附 | |
1938年(昭和13年)3月 | 陸軍砲兵中尉 | |
1939年(昭和14年)7月 | 野戦重砲第1連隊中隊長心得 | |
1939年(昭和14年)8月 | 阿城重砲連隊中隊長 | |
1939年(昭和14年)12月 | 陸軍砲工学校普通科入校 | |
1940年(昭和15年)7月 | 陸軍砲工学校普通科卒業 | |
1940年(昭和15年)2月 | 陸軍野戦砲兵学校附 | |
1941年(昭和16年)3月 | 陸軍大尉 | |
1942年(昭和17年)12月 | 陸軍大学校入校 | |
1943年(昭和18年)12月 | 陸軍少佐 | |
1944年(昭和19年)7月 | 陸軍大学校卒業(58期) | |
1944年(昭和19年)7月 | 第36軍情報参謀 | |
1945年(昭和20年)10月 | 陸軍省附 | |
1945年(昭和20年)12月 | 予備役 | |
1946年(昭和21年)5月23日 | 免貴族院議員[9] | |
1947年(昭和22年)10月14日 | 皇籍離脱 | |
1969年(昭和44年)2月1日 | 逝去 |
脚注
編集注釈
編集- ^ 皇籍離脱後の氏名
出典
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 日本ペット学会>東久邇宮盛厚殿下と「日本ペット学会」について - ウェイバックマシン(2004年5月4日アーカイブ分)
- ウィキメディア・コモンズには、盛厚王に関するカテゴリがあります。