益田貞兼
益田 貞兼(ますた さだかね)は戦国時代の武将。戦国大名大内氏の家臣。益田氏第16代。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 大永6年7月20日[1][2](1526年9月6日) |
改名 | 貞兼、(法名)全田[1][2] |
別名 | (通称)又次郎[1][2] |
官位 | 越中守[1][2]、治部少輔[1][2] |
主君 | 大内政弘、義興 |
氏族 | 益田氏 |
父母 | 父:益田兼堯[1][2]、母:吉山氏[2] |
兄弟 | 貞兼、男子[2]、男子[2]、妹(陶弘護室)[2]、女子(益田兼治室)[2]、女子[2]、女子(吉見俊家室)[2]、兼久[2] |
子 | 宗兼[1][2]、徳祐[2]、宇野興兼[2]、兼勝[2] |
生涯
編集石見国の国人。寛正2年(1461年)に父益田兼堯から家督を譲られ、以降大内政弘に仕える。応仁の乱に際しては政弘に従って上洛し、細川勝元軍と交戦して武功を挙げ、足利義視から太刀と鎧を与えられた。
文明2年(1470年)、周防国において大内教幸が反乱を起こす(大内道頓の乱)。石見の有力国人吉見信頼も反乱に加担したため、政弘の命令で石見に帰国し、陶弘護と協力して反乱を鎮圧した。この功績を受けて政弘より周防・長門などに所領を新たに加増され、益田氏の全盛期を創出する。文明11年(1479年)には9代将軍足利義尚の接待を受けている。
文明15年(1483年)、嫡男の宗兼に家督を譲って隠居したが、引き続き大内家の重鎮として政務に参画した。大永6年(1526年)7月20日に死去。
脚注
編集参考文献
編集- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9。
- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。
- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。 国立国会図書館デジタルコレクション