益田尹兼
益田 尹兼(ますだ ただかね)は、戦国時代の武将。石見国の国人である益田氏の第18代当主。幼名は熊童丸。通称又次郎[1]。官位は越中守[1]。父は益田宗兼[1]、母は陶氏の娘。子に益田藤兼[1]。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 永禄8年9月3日[1](1565年10月6日) |
改名 | 益田熊童丸(幼名)→益田尹兼 |
別名 | 通称:又次郎 |
戒名 | 桂香院殿全屋尹兼大居士 |
官位 | 越中守 |
主君 | 大内義興→義隆→義長→毛利元就 |
氏族 | 藤姓道兼流御神本氏族益田氏 |
父母 | 父:益田宗兼、母:陶氏の娘 |
子 | 藤兼、兼任、女(寺戸氏室) |
生涯
編集石見国の国人である益田氏の第17代当主・益田宗兼の子として生まれる。
永正5年(1508年)の大内義興の上洛に父・宗兼と共に従う。永正8年(1511年)の船岡山合戦にも参戦し、父の戦功により足利義尹(後の足利義稙)から「尹」の偏諱を賜り、「尹兼」と名乗った。しかし、在京中に三隅興兼が石見西部へ攻め入ったため、父に先立って帰国し、永正15年(1518年)まで交戦した。
大永6年(1526年)に出雲国から石見国へ侵攻した尼子経久を迎え撃ち、翌大永7年(1527年)には毛利元就や天野興定と共に安芸鳥子城を攻め落とした。享禄3年(1530年)には吉見頼興と高津川の支流匹見川の水域に関する協定を結んだ。
天文13年(1544年)に嫡男・藤兼に家督を譲り、以後20年に渡って藤兼を後見した後、永禄8年(1565年)9月3日に死去。法名は桂香院殿全屋尹兼大居士[1]。
脚注
編集参考文献
編集- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。
- 『益田市誌 上巻』益田市編纂委員会編、益田市編纂委員会事務局、1975年。
- 『島根県歴史人物事典』山陰中央新報社島根県歴史人物事典刊行委員会編、山陰中央新報社、1997年。