田子ノ浦部屋 (2000-2012)
日本の相撲部屋 (2000-2012)
歴史
編集1998年(平成10年)9月場所限りで引退して準年寄・久島海として出羽海部屋の部屋付き親方となった後、1999年8月に年寄・田子ノ浦を襲名した14代田子ノ浦が、2000年2月1日付で出羽海部屋から分家独立して大宮市(現・さいたま市西区)高木に田子ノ浦部屋を創設した[1]。2003年12月には東京都江東区へ部屋を移転した。
所属力士の四股名には、当初は師匠の現役時の四股名から1字取って「久」という字がよく使用されていたが、後年は師匠の故郷である和歌山県の海の色に因む「碧」(あお)という字を使用するようになった。2011年7月場所にはブルガリア出身の碧山が新十両へ昇進し、部屋史上初となる関取が誕生して、その後のさらなる弟子育成も期待されていた。
しかし、2012年2月13日に師匠である14代田子ノ浦が急逝し[2]、後継者の資格を有する部屋付きの親方もいなかったため、田子ノ浦部屋は閉鎖された。残された8人の弟子たちは、同じ出羽海一門に所属する出羽海部屋(5人)と春日野部屋(3人)に分割移籍した。同じ部屋の所属力士が2つの部屋に分かれて移籍する例は戦後初のこととなった。なお、力士たちの移籍する部屋が2つに分かれたのは、各人の希望を尊重した結果であるという[3]。
部屋閉鎖後、鳴戸部屋の師匠だった隆の鶴が14代夫人所有だった田子ノ浦の名跡を取得し、部屋名を「田子ノ浦部屋」に改めた。
最終所在地
編集師匠
編集- 14代:田子ノ浦啓人(たごのうら けいひと、前1・久島海、和歌山)
閉鎖時点の所属力士
編集春日野部屋へ移籍
編集出羽海部屋へ移籍
編集脚注
編集- ^ “相撲どころ復活なるか(比べてみれば さいたま解剖)”. 朝日新聞. (2000年3月5日)
- ^ 田子ノ浦親方、46歳で急死 部屋で吐血 スポーツ報知 2012年2月13日閲覧
- ^ “田子ノ浦部屋の8力士、移籍先は2部屋”. 日刊スポーツ. (2012年2月22日) 2012年2月22日閲覧。