王鳳 (前漢)
略歴
編集同母妹に当たる王政君が当時皇太子だった元帝の側室となり後の成帝を産み、元帝の皇后に立てられたことから、彼らの一族は高い地位と権力を得ることとなった。
王鳳は彼や王政君の父の王禁の後を継いで陽平侯となり、また衛尉・侍中に任じられた。
元帝が崩御し成帝が皇帝となると、王政君は皇太后となり、王鳳は大司馬・大将軍・領尚書事となった(この地位は霍光のものと同じであり、まだ若い皇帝の摂政のようなものと考えられる)。また、河平2年(紀元前27年)には王鳳・王政君の異母弟である王譚・王商・王立・王根・王逢時の5人が列侯に封じられ、それらは「五侯」と呼ばれた。(王鳳らの兄弟でこの時までに列侯とならなかったのは既に死んでいた王曼だけであった。彼の子が王莽である。そのほかの弟に安成侯となった王崇もいた)彼ら王氏一族は皆朝廷に位を得た。
王鳳は政治の実権を握り、成帝も彼に対して謙譲し、彼に相談せず何かを決めることはなく、成帝は快く思っていなかったようである。丞相の王商(宣帝の母の実家の一族であり、王鳳の弟の王商とは別人)は外戚でもあり王鳳と対立していたが失脚させ、また王鳳を排除しようとした京兆尹の王章も逆に獄死させるなど、政敵を排除して地位を守った。
大臣達も王氏を憚り、太守や刺史を王氏の関係者から多数輩出するなど、権勢を誇った。王鳳の庶弟「五侯」は奢侈で有名となり、その贅沢振りは民間に謡われるほどであった。
王鳳は陽朔3年(紀元前22年)8月、後継者として、奢侈で評判が悪かった上、王鳳とも仲が悪かった弟の王譚ではなく、彼の従弟に当たる御史大夫の王音を選び、王譚ら「五侯」は用いないよう成帝に遺言して病死する。
葬儀には皇帝自らが臨むなど異例の扱いをされ、敬成侯と諡された。陽平侯は子の王襄が継いだ。王襄は鴻嘉元年(紀元前20年)に衛尉、永始2年(紀元前15年)に太僕となった。陽平侯はその子の王岑、その子の王莫まで続いたが王莫の代に兵士に殺されて断絶した。