王国 (涼州)
王 国(おう こく、? - 中平6年〈189年〉[1])は、後漢末の人物。涼州隴西郡狄道県[2]または漢陽郡[3][4]の人。後漢末期の涼州反乱の主導者の一人。
略歴
編集王国は、本貫・種族・反乱への参加時期の全てにおいて情報が錯綜している[5][注釈 1]。魚豢『典略』では、王国は羌や氐と区別され、漢族であるように記されているが[9]、『献帝春秋』においては、宋建と共に「涼州義従」、すなわち異民族として記録されている[5][10]。古亜寧によれば、これは涼州において諸民族どうしの結びつきが強く、民族間の区別が曖昧だったことを示すという[11]。また反乱時期についても、『献帝春秋』では反乱の発端となっており[10]、『後漢書』においては、韓遂と同様、涼州刺史である耿鄙の討伐対象となるが[12]、別の記述では、韓遂が耿鄙を退けた後に反乱に参じているなど[13][3][14]、史書の記述は定まっていない[5]。飯田祥子の解釈によれば、王国に関する情報の混乱は、王国が一定の勢力を保持しており、独自に反乱を起こしていたのが、ある時期から韓遂らに呼応したためだという[15]。
中平元年(184年)、王国は先零羌(羌族の一種族)、宋建、湟中義従胡(漢に帰順した異民族)の北宮伯玉・李文侯、漢族の辺章・韓遂と共に涼州で反乱を起こし、関中進出を図った[16]。車騎将軍の張温が率いる鎮圧軍の攻勢により、勢いの減衰した反乱軍は西に退いたが[17]、中平3年(186年)に再び関中侵攻を行った[18]。韓遂が辺章・北宮伯玉・李文侯を殺害し、彼らの兵を吸収して隴西を包囲すると、隴西太守の李相如は降伏して反乱軍に加わった[19]。中平4年(187年)4月には耿鄙による討伐軍を破り、ついには耿鄙を殺害した[20]。反乱軍は傅燮が太守を務める漢陽を包囲するまでに至り、王国は元酒泉太守の黄衍を派遣して降伏するよう促したが、傅燮は説得に従わず、出撃して戦死した[21]。一方、耿鄙の部下だった涼州司馬の馬騰は反乱軍へと合流した[3]。王国は韓遂・馬騰と共に反乱の中心人物となり、「合衆将軍」と称した[14][22]。ただし『英雄記』には、王国らが閻忠[注釈 2]を脅して主に擁立し、軍を統率させ、車騎将軍を号させたという記述もある[27][28][29]。
中平5年(188年)11月、王国らが陳倉を包囲すると[30]、皇甫嵩と董卓はそれぞれ左将軍・前将軍に任命され、反乱軍の討伐に赴いた[27]。80日を過ぎても城を攻略できず戦意喪失した王国らの軍は、中平6年(189年)2月、皇甫嵩軍の反撃により大破され[31][32]、王国は死亡した[27][33]。このとき、王国は韓遂らによって主の立場から追放されたともいう[34][35]。新たに主とされた閻忠も恥辱を覚えるうちに病死したため、主を失った反乱軍は結束力を失い、瓦解した[36]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ de Crespigny 2007, p. 814.
- ^ 袁宏 (中国語), 『後漢紀』巻25孝霊皇帝紀下, ウィキソースより閲覧, "[中平四年]夏,狄道人王國反。"
- ^ a b c (中国語) 『後漢書』巻8霊帝紀, ウィキソースより閲覧, "[中平四年]夏四月,涼州刺史耿鄙討金城賊韓遂,鄙兵大敗,遂寇漢陽,漢陽太守傅燮戰沒。扶風人馬騰、漢陽人王國並叛,寇三輔。"
- ^ (中国語) 『後漢書』巻58蓋勲伝注引『続漢書』, ウィキソースより閲覧, "是時,漢陽叛人王國,觿十餘萬,攻陳倉,三輔震動。"
- ^ a b c 飯田 2022, pp. 106–107.
- ^ 『三国志』巻1武帝紀
- ^ 『三国志』巻9夏侯淵伝
- ^ Haloun 1949, p. 123.
- ^ 『三国志』巻36馬超伝注引『典略』
- ^ a b (中国語) 『後漢書』巻72董卓伝注引『献帝春秋』, ウィキソースより閲覧, "涼州義從宋建、王國等反。詐金城郡降,求見涼州大人故新安令邊允[邊章]、從事韓約[韓遂]。約不見,太守陳懿勸之使往,國等便劫質約等數十人。金城亂,懿出,國等扶以到護羌營,殺之,而釋約、允等。"
- ^ 古 2019, p. 58.
- ^ (中国語) 『後漢書』巻58傅燮伝, ウィキソースより閲覧, "中平四年,[耿]鄙率六郡兵討金城賊王國、韓遂等。"
- ^ 森本 2012, p. 159.
- ^ a b (中国語) 『後漢書』巻72董卓伝, ウィキソースより閲覧, "[中平三年]其冬,徵[張]溫還京師,韓遂乃殺邊章及[北宮]伯玉、[李]文侯,擁兵十餘萬,進圍隴西。太守李相如反,與遂連和,共殺涼州刺史耿鄙。而[耿]鄙司馬扶風馬騰,亦擁兵反叛,又漢陽王國,自號「合眾將軍」,皆與韓遂合。共推王國為主,悉令領其眾,寇掠三輔。"
- ^ 飯田 2022, p. 107.
- ^ 飯田 2022, p. 106.
- ^ Haloun 1949, p. 121.
- ^ 飯田 2022, pp. 94–95.
- ^ 飯田 2022, p. 95; 森本 2012, pp. 158–159; Haloun 1949, p. 122.
- ^ 飯田 2022, p. 95.
- ^ 森本 2012, p. 157; Haloun 1949, p. 122.
- ^ 飯田 2022, pp. 95–96.
- ^ 森本 2012, p. 170.
- ^ 『三国志』巻10賈詡伝
- ^ 飯田 2022, pp. 107–108; 森本 2012, p. 170.
- ^ (中国語) 『後漢書』巻71皇甫嵩伝, ウィキソースより閲覧。
- ^ a b c 飯田 2022, p. 96.
- ^ 『三国志』巻10賈詡伝注引『英雄記』
- ^ (中国語) 『後漢書』巻72董卓伝注引『英雄記』, ウィキソースより閲覧, "王國等起兵,劫[閻]忠為主,統三十六部,號『車騎將軍』。"
- ^ (中国語) 『後漢書』巻8霊帝紀, ウィキソースより閲覧, "[中平五年]十一月,涼州賊王國圍陳倉,右將軍皇甫嵩救之。"
- ^ 白 2013, p. 161; Haloun 1949, pp. 122–123.
- ^ (中国語) 『後漢書』巻8霊帝紀, ウィキソースより閲覧, "[中平]六年春二月,左將軍皇甫嵩大破王國於陳倉。"
- ^ (中国語) 『後漢書』巻71皇甫嵩伝, ウィキソースより閲覧, "[中平]五年,涼州賊王國圍陳倉,復拜[皇甫]嵩為左將軍,督前將軍董卓,各率二萬人拒之。[...]王國圍陳倉,自冬迄春,八十餘日,城堅守固,竟不能拔。賊衆疲敝,果自解去。嵩進兵擊之。卓曰:「不可。兵法,窮寇勿追,歸衆勿迫。今我追國,是迫歸衆,追窮寇也。困獸猶鬭,蜂蠆有毒,況大衆乎!」嵩曰:「不然。前吾不擊,避其銳也。今而擊之,待其衰也。所擊疲師,非歸衆也。國衆且走,莫有鬭志。以整擊亂,非窮寇也。」遂獨進擊之,使卓為後拒。連戰大破之,斬首萬餘級,國走而死。"
- ^ 飯田 2022, pp. 96, 107; 白 2013, p. 161; Haloun 1949, p. 123.
- ^ (中国語) 『後漢書』巻72董卓伝, ウィキソースより閲覧, "[中平]五年,[王國]圍陳倉。乃拜[董]卓前將軍,與左將軍皇甫嵩擊破之。韓遂等復共廢王國,而劫故信都令漢陽閻忠,使督統諸部。"
- ^ 飯田 2022, p. 96; 森本 2012, p. 159; Haloun 1949, p. 123.
参考文献
編集- 飯田祥子「後漢後期・末期の西北辺境漢族社会——韓遂の生涯を手がかりに——」『漢新時代の地域統治と政権交替』汲古書院〈汲古叢書〉、2022年、89–128頁。ISBN 9784762960772。
- 森本淳「後漢末の涼州の動向」『三国軍制と長沙呉簡』汲古書院、2012年、149–174頁。ISBN 9784762929922。
- 白亮「東漢末年馬騰、韓遂軍事集団述論」『蘭州大学学報(社会科学版)』第6期、2013年、160–164頁、doi:10.13885/j.issn.1000-2804.2013.06.013。
- 古亜寧「東漢末到三国時期涼州各民族間的交流——兼論魏、蜀在涼州的博奕」『河西学院学報』第3期、2019年、56–62頁、doi:10.13874/j.cnki.62-1171/g4.2019.03.009。
- de Crespigny, Rafe (2007). A Biographical Dictionary of Later Han to the Three Kingdoms (23-220 AD). Brill. ISBN 9789047411840.
- Haloun, Gustav (1949). “The Liang-chou rebellion, 184-221 A.D.” (PDF). Asia Major (1): 119–132 .
関連項目
編集- 『三国志』