狩野明男

日本の政治家 (1934-1992)

狩野 明男(かのう あきお、1934年昭和9年〉10月2日 - 1992年平成4年〉2月26日)は、日本政治家衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。選挙に出馬するときは「かのう 明男」という表記だった。

狩野 明男かのう あきお
生年月日 (1934-10-02) 1934年10月2日
出生地 日本の旗 神奈川県三浦郡葉山町
没年月日 (1992-02-26) 1992年2月26日(57歳没)
死没地 東京都港区 虎の門病院
出身校 慶應義塾大学法学部
前職 実業家
所属政党 自由民主党三塚派
称号 正五位
勲三等旭日中綬章
配偶者 妻・狩野安(元参議院議員)
子女 長男・狩野岳也(元茨城県議会議員
親族 義父・加藤高蔵(衆議院議員)

選挙区 茨城県選挙区
当選回数 1回
在任期間 1989年7月23日 - 1992年2月26日

選挙区 旧茨城1区
当選回数 2回
在任期間 1979年10月7日 - 1983年11月28日
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経歴

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1934年(昭和9年)10月3日神奈川県三浦郡葉山町生まれ。茨城県新治郡志士庫村(後の出島村、霞ヶ浦町を経て現在のかすみがうら市)出身。

1941年(昭和16年)4月、志士庫村立宍倉国民学校入学。小学2年生のときに父がニューギニアの戦いで戦死し、母も6年生のとき死去、狩野他3人の兄弟は親戚で別々に育てられる[1]1947年(昭和22年)4月、荏原中学校入学。1950年(昭和25年)4月、茨城県立土浦第一高等学校入学。1953年(昭和28年)4月、慶應義塾大学法学部入学。

1958年(昭和33年)3月、慶應義塾大学卒業。それからは茨城に戻って農業に携わった後、酒造会社や自動車販売会社の経営に関わる[1]

1972年(昭和47年)7月水戸市長選挙落選。

1976年(昭和51年)12月第34回衆議院議員総選挙旧茨城1区から立候補し落選。1979年(昭和54年)10月第35回衆議院議員総選挙に旧茨城1区から立候補し当選。1980年(昭和55年)6月第36回衆議院議員総選挙当選。1983年(昭和58年)12月、第37回衆議院議員総選挙落選。衆議院時代は文教委員会に所属して教科書無料制度存続に尽力、国際社会の一員として開かれた教育にと外国人教員法成立のため提案理由の説明や答弁に積極的に引き受け、成立に至った[1]1981年(昭和56年)、請われて水城高等学校理事長にも就任した[1]

1986年(昭和61年)7月、第14回参議院議員通常選挙茨城県選挙区から立候補し落選。1989年(平成元年)7月、第15回参議院議員通常選挙茨城県選挙区から立候補し当選。1990年(平成2年)2月法務政務次官第2次海部内閣)就任。参議院時代は各委員会で中小企業対策や通勤対策に問題をよく取り上げ、法務政務次官としては商法一部改正や借地借家法改正の実現に携わった[1]

父が戦死していることから遺族会活動に積極的で慰霊団団長として国内外の戦跡訪れた[1]。福祉問題にも関心を寄せ、国会議員として初めて点字を用いた名刺を作成、招待された結婚式の謝礼を新郎新婦の名前で密かに福祉施設へ寄付をしたこともあった[1]

自民党では国民運動副本部長、文教副部会長、交通副部会長の役職を務めた[1]

スポーツを愛好し、合気道五段[1]。毎朝、6キロのジョギングも行い、衆議院時代には青梅マラソンに参加した[1]

1992年(平成4年)2月26日心不全のため東京都港区虎の門病院で現職のまま死去、57歳[1]。死没日をもって勲三等旭日中綬章追贈、正五位に叙される[2]

家族

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著書

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  • 「新しい政治を求めて」シリーズ
    • 米大統領選挙視察
    • 燃える中国・鄧小平の復活
    • 明けゆく国々 1982年 プランナーズ・ユニオン出版局
  • 早春賦 狩野明男遺稿集 1994年 狩野安事務所

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 第123回国会 参議院 本会議 第5号 平成4年3月11日
  2. ^ 『官報』第860号3頁 平成4年3月7日号