物産館 (建築物)
物産館(ぶっさんかん)とは、かつて日本の東京都港区西新橋にあった建築物である。旧称は日産館。別称は日産ビルディング(日産館時代)、三井物産館、三井物産本社ビル(物産館時代)など。
物産館 | |
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情報 | |
旧名称 | 日産館 |
用途 | 事務所 |
設計者 | 中央土木 |
施工 | 中央土木 |
建築主 | 日本産業 |
事業主体 | 日本産業→海軍省→厚生省→合同ビルディング・物産不動産 |
構造形式 | 鉄骨鉄筋コンクリート構造 |
敷地面積 |
※1,259.636坪 |
建築面積 |
※1,091.226坪 |
延床面積 |
※8,146.752坪 |
階数 | 地下1階、地上8階、塔屋2階 |
高さ | 最高軒高102.2尺(約31メートル)、塔屋高120.677尺 |
エレベーター数 | 乗用6台、貨物用1台 |
着工 | 1934年(昭和9年)11月14日 |
竣工 | 1937年(昭和12年)7月15日 |
改築 | 1980年(昭和55年)解体 |
所在地 |
〒105-0003 東京都港区西新橋一丁目2番9号 |
座標 | 北緯35度40分10.69秒 東経139度45分16.43秒 / 北緯35.6696361度 東経139.7545639度 |
沿革
編集日産財閥
編集日産コンツェルンはそれまで麹町区八重洲町(現千代田区丸の内2丁目)にあった三菱仲15号館を拠点としていたが、事業の拡大によって手狭となってきた。そのため、芝区田村町(現港区西新橋1丁目)に自社ビルを建設することとなり、1934年11月に着工、1937年7月に竣工した。
日中戦争・第二次世界大戦の進捗に伴う戦局の変化から、1944年に大日本帝国海軍に接収され、艦政本部が置かれた。終戦後は東京大空襲で庁舎を焼失した外務省が入居し、終戦連絡中央事務局が設置された。財閥解体の過程で、厚生省に所有権が移っていた日産館は、日産コンツェルン傘下だった合同ビルディングが買い戻し、貸事務所として使用された。1954年7月15日には、日本初の屋上プールが営業を開始している[1]。
三井財閥へ
編集1956年、鮎川義介は日産館を所有会社の合同ビルディングと共に三井物産に売却した[2]。日産館は「物産館」と改称され(同時に合同ビルディングは社名を「物産不動産」に変更)、三井物産の本社社屋として使用されるようになる。
1974年10月14日、3階にあった三井物産電算機室に仕掛けられた爆弾が爆発。16人が負傷した(三井物産爆破事件)。この事件は東アジア反日武装戦線による一連の連続企業爆破事件のひとつに数えられる。
1976年10月、三井物産は本社を大手町に移転した。これを機に、隣接する日比谷国際ビルヂング(旧NHK東京放送会館。1938年築)、富国館(1927年築)との一体再開発が、所有各社や周辺地権者の間で検討されたが、物産不動産は単独での改築に方針を転換した。同年12月、桜田門の警視庁本部新庁舎建設に伴う新橋仮庁舎として1980年7月まで使用後、1981年1月日比谷セントラルビル建設のため解体された。
建築概要
編集規模・構造は鉄骨鉄筋コンクリート構造の地下1階、塔屋2階付地上8階建てで、敷地面積は約4,200平方メートルにして建築面積は約3,600平方メートル、延床面積は約27,000平方メートルといった当時の日本としては規模大なるもの。高さ約31メートル。近世式という様式。設計・施工は日産系の中央土木株式会社(合併を経て、現・りんかい日産建設)で、設計主任は川本良一、監督主任は西山銀吉であった[3]。
出典
編集参考文献
編集- 『土木建築工事画報 第13巻第10号』 工事画報社、昭和12年(1937年)10月。
- 『建築雑誌 第51輯 第631號』 建築學會、昭和12年(1937年)12月。
- 日産建設株式会社総務部編 『風雪之五十年』 日産建設株式会社、昭和49年(1974年)2月24日。
- 三菱地所株式会社社史編纂室編 『丸の内百年のあゆみ:三菱地所社史』 三菱地所、平成5年(1993年)。
外部リンク
編集- 物産不動産株式会社
- 旧日本放送会館 - 建築士から見たマンションについての本音を公開します - Yahoo!ブログ - ウェイバックマシン(2019年11月1日アーカイブ分) - 物産館の天然色写真がある。