灰屋 紹益(はいや じょうえき、慶長15年(1610年[1][注釈 1]- 元禄4年11月12日1691年12月31日[1])は、江戸時代前期の京の町衆・歌人・蹴鞠家・茶人。本名は佐野 重孝、号は紹益(初めは承益)、通称は三郎左衛門(三郎兵衛・三郎右衛門等とするのは誤り)[1]

経歴・人物

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本阿弥光益の子としてに生まれ、幼くして灰屋紹由の養子となる[1]

諸芸に通じており、なかでも和歌烏丸光広松永貞徳飛鳥井雅章蹴鞠飛鳥井家茶の湯金森宗和等に師事して修めていた[1]。 また、これらを介して当代の主要な文化人達との間に広い人脈を有しており、大叔父にあたる本阿弥光悦をはじめとする他の町衆に留まらず、後水尾天皇八条宮智忠親王等の皇族徳川光友等の大名とも親交があった[1]

妻に六条三筋町の名妓であった吉野太夫(二代目)を迎えており、その身請けをめぐっては近衛信尋と競い勝ったとされる[1]

著書『にぎはひ草』 は、随筆文学の傑作といわれる。

元禄4年(1691年)11月12日没、享年82歳、戒名「古継院紹益日吟」[1]。墓は立本寺にある。

著書

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1607年(慶長12年)説もある。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h 江馬務『江馬務著作集 第九巻』普及版、中央公論社、1988年、第一部第二章「灰屋紹益と吉野太夫」(1922年初出)。