渡辺陳平
渡辺 陳平(本姓・渡邉[1]、わたなべ ちんぺい、1871年8月10日(明治4年6月24日[2])- 1946年(昭和21年)6月11日[1])は、明治後期から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・飯村。
経歴
編集下野国河内郡、のちの栃木県[1]河内郡城山村[3][4](現宇都宮市)で、漢方医・飯村道碩の三男として生まれる[3][4][5]。私立下野英学校、作新館で学んだ[1][3]。1891年(明治24年)城山村で大谷石採掘を副業としていた渡辺庄作の養子となり[3][5]、1904年(明治37年)7月に家督を相続した[5]。
大谷石の将来性に着目し、荒針-鶴田間に軽便鉄道を敷設して輸送の便を図って事業を拡大した。また同業者の団結が業界の発展に不可欠と説き、宇都宮石材問屋組合(現:大谷石材協同組合)を組織した。その他、下野電力監査役、宇都宮電球取締役、中宮祠電力取締役、農商無尽取締役、栃木県農工銀行監査役、下野毎日新聞社相談役などを務めた[1][5]。
政界では、城山村長、城山村会議員、栃木県会議員、同参事会員、営業税調査委員、県治水会員、同山林会評議員などに在任[1][4]。1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙(栃木県郡部、立憲政友会)で当選し[4][6]、衆議院議員に1期在任した[1]。1919年(大正8年)立憲政友会栃木県支部の初代支部長となる[4]。
脚注
編集参考文献
編集- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 『栃木県大百科事典』下野新聞社、1981年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『栃木県歴史人物事典』下野新聞社、1995年。