清水徳川家
清水徳川家(しみずとくがわけ)は、徳川将軍家の一門である御三卿の一つ。単に清水家とも言う。
清水徳川家 | |
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本姓 | 称・清和源氏 |
家祖 | 徳川重好 |
種別 | 武家→華族(伯爵)→士族→華族(男爵) |
出身地 | 武蔵国江戸 |
主な根拠地 |
武蔵国江戸 東京府 |
著名な人物 |
徳川昭武 徳川好敏 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
概要
編集清水徳川家は江戸幕府9代将軍家重の次男重好を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家とともに後嗣を出す資格を有した。ただし、清水家の出身で徳川将軍家を継いだ人物はいない(3代斉順の子家茂が14代将軍に就いているが、斉順が清水家を転出した後にもうけた子である)。家格は御三家に次ぎ、石高は10万石。家名の由来となった屋敷地は、江戸城清水門内で田安邸の東、現在の北の丸公園・日本武道館付近にあった。維新後は、元の下屋敷の一つであった甘泉園(東京都新宿区西早稲田)に邸宅を構えていた。なお、御三卿はいずれも独立した別個の「家」ではなく、「将軍家(徳川宗家)の家族」、いわば「部屋住み」として認識されていた。したがって、領地は幕府領から名目的に割かれているのみで支配のための藩は持たず、家臣団も少人数の出向者(主に旗本、他に当主生家の家中など)で構成されていた。
清水家は実子のなかった初代の重好以来、維新期を越えて大正13年(1924年)まで実子による相続が皆無であり、重好を含めて江戸時代を通じ、将軍世子(家治、家慶)の弟ないし将軍(慶喜)の弟が幼少で当主に立てられている。加えて御三家に転出した当主が相次いだこともあって一時的な断絶を繰り返しており、御三卿の中で最も出入りが激しい家でもある。
初代・重好と将軍家斉の庶子たちの時代、長期の明屋敷
編集重好は宝暦3年(1753年)に賄料3万俵を与えられ、宝暦7年(1757年)に御守(家老)2名が付けられ、宝暦8年(1758年)に清水門内に邸地を与えられた。宝暦9年(1759年)、元服して宮内卿を称し、賄料1万5千俵を加増されて屋形に移った。宝暦12年(1762年)、新規に賄料領知10万石を武蔵・上総・下総・甲斐・大和・和泉・播磨の7か国に与えられた。
重好は第10代将軍となった異母兄の徳川家治と、当初は良好な関係を保っていたが、家治の嫡男であった家基の死後には最近親だったにもかかわらず将軍後継からは外され、天明6年(1786年)の家治の死後は一橋治済の子の家斉が第11代将軍となった。
寛政7年(1795年)の重好死去の際、嗣子なくして当主は空席となり、所領・家屋敷・家臣は一時的に幕府に収公されている。これは、同じ御三卿である他の2家(田安家・一橋家)が、空席の場合は明屋敷となるもそれら組織が存続されたことと比して異例であった。
清水家はその後、寛政10年(1798年)に将軍徳川家斉の幼い息子敦之助を当主として再興される。敦之助は清水屋敷へ移ることのないまま翌年に夭逝するが、子だくさんであった家斉はその後も30年ほどの間に斉順、斉明、斉彊と、次々に庶子を清水家当主に据えた。このうち斉順と斉彊は清水家を出て紀伊徳川家を継ぎ、斉明は夭逝した。
清水家は弘化3年(1846年)から長らく明屋敷となる。その間、安政4年(1857年)には講武所拡張のために清水家の改易計画が出された(最終的には田安家の反対で中止)[1]。また、安政5年(1858年)には井伊直弼が南紀派の勢力拡大を狙い、当時隠居していた元津山藩主斉民(家斉の十五男で斉明の弟・斉彊の兄)に清水家を継がせようと働きかけたが実現せず、結局20年にわたり当主不在が続くこととなった[1]。
昭武の清水家相続と渡欧から帰国まで
編集幕末の慶応2年(1866年)、15代将軍徳川慶喜の弟で水戸徳川家出身の昭武が江戸時代最後の清水家当主となった。慶喜は、パリ万国博覧会への使節の派遣に当たって昭武を名代に任じ、その便宜として清水家を継がせたのである(将軍舎弟としての格式に加え、形の上で水戸家から離され同家への配慮の必要が薄れる)。昭武は当時実子のなかった慶喜から、自身の後継者候補とも目されていた。なお、その直前には14代将軍家茂の内意により元尾張藩主の茂栄が清水家を継ぐ予定だったが[1]、将軍に就任した慶喜の意向で昭武が清水家を、茂栄が慶喜転出後の一橋家をそれぞれ相続した。
渡仏した昭武は、幕府代表として対ヨーロッパ外交に努め、また万博閉幕後もフランスに滞在して勉学にも励んだが、その間に日本では大政奉還と明治政府の樹立、さらに長兄の水戸藩主徳川慶篤の死が続いた。昭武は明治元年(1868年)に帰国すると、水戸家の家督を継ぎ、そのため清水家はまたも当主不在となった。そうした事情もあって、御三卿の他の2家が維新後に一時とはいえ田安藩・一橋藩を立藩したのと異なり、「清水藩」は立藩していない[注 1]。
なお、一方でその時期の清水邸は、将軍徳川家茂の御台所・和宮[注 2]の文久元年(1861年)の降嫁準備と、慶応4年(1868年)の江戸城の明け渡し後の住居として活用されていた(前者時は明屋敷、後者時は当主渡欧中で不在)。
明治以降の清水徳川家
編集明治3年(1870年)2月、昭武の甥(慶篤の次男)篤守が新たに清水家当主となって家禄2500石を支給され、華族に列した。この時、津山松平家の斉民・康民親子が当主候補に挙がったが(斉民は2度目)、いずれも当人が辞退している。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄の代わりに支給された金禄公債の額は9万8151円余。篤守は相続の際に清水姓に改めたが、明治10年(1880年)には徳川姓に復している。明治17年(1884年)の華族令で伯爵を授けられたが、篤守は負債を巡る訴訟事件により「華族の礼遇に耐えられず」として、明治32年(1899年)に爵位を返上した。明治35年(1902年)6月15日付の『東京朝日新聞』により、清水徳川家の関係者による徳川慶喜の息子を相続人とする再受爵運動を確認できる[2]。
その後、日本最初の航空パイロットとして知られる篤守の嫡子好敏が日本陸軍航空兵分野確立の勲功により、昭和3年(1928年)にあらためて男爵を授けられた[3]。後に好敏は陸軍中将に昇進している。
歴代当主
編集江戸時代
編集- 初代当主 重好
- 1795年、実子なく死去。
- 1795年 - 1798年 当主不在。
- 2代当主 敦之助 (徳川将軍家から養子、11代将軍家斉の五男)
- (当主に数えない場合もある)
- 1799年、4歳で夭折。
- 1799年 - 1805年 当主不在。
- 3代当主 斉順 (11代将軍家斉の七男)
- 1816年、和歌山藩11代藩主として紀伊徳川家を襲封。
- 4代当主 斉明 (11代将軍家斉の十一男)
- 1827年、19歳で夭折。
- 5代当主 斉彊 (11代将軍家斉の二十一男)
- 1846年、和歌山藩12代藩主として紀伊徳川家を襲封。
- 1846年 - 1866年 当主不在。
- 6代当主 昭武 (水戸徳川家から養子、15代将軍慶喜の弟)
- 1868年、水戸藩11代藩主として水戸徳川家を襲封。
明治以降
編集系譜
編集凡例:太字は清水家の人物、数字は当主の代数
重好から斉彊まで
編集家重 | 宗武 | 宗尹 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家治 | 重好1 | 治済 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家基 | 家斉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家慶 | 敦之助2 | 斉順3 | 斉明4 | 斉荘 | 松平斉民 | 斉彊5 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭武以降
編集斉昭 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
慶篤 | 慶喜 | 昭武6 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
篤敬 | 篤守7 | 武定 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
芳子 | 好敏8 | 貞子 | 保子 | 守 | 川上明 | 鈴子 | 光 | 山田雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豪英9 | 輝尚 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
恵 | 栄 | 真10 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 藤田英昭 著「田安徳川家・一橋徳川家・清水徳川家」、竹内誠 編『徳川幕府事典』東京堂出版、2003年7月20日、29-32頁。ISBN 9784490106213。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年3月1日。ISBN 9784121018366。
- 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年11月30日。ISBN 9784642014724。
外部リンク
編集- ウィキメディア・コモンズには、清水徳川家に関するカテゴリがあります。