清村耕次

1925-1966, 俳優。

清村 耕次(きよむら こうじ、1925年6月27日[1] - 1966年2月1日)は、日本の俳優。新潟県出身[注釈 1]。本名は鈴木重則[1]。人気ドラマにレギュラー出演していたが40歳で自死した。

きよむら こうじ
清村 耕次
本名 鈴木 重則[1]
生年月日 (1925-06-27) 1925年6月27日
没年月日 (1966-02-01) 1966年2月1日(40歳没)
出生地 日本の旗 日本 新潟県
死没地 日本の旗 日本 東京都足立区
民族 日本人
職業 俳優
ジャンル テレビドラマ、映画
活動期間 1937年 - 1966年
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人物・略歴

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小学生時代に役者を志し、1937年に児童劇団『劇団東童』に入団し初舞台[2]。1941年、NHKラジオ第1放送の『こどもの時間』にレギュラー出演。1943年に駿台商業学校を卒業。翌1944年に出征、終戦当時はソ連の国境にいたためソ連軍の捕虜となり、シベリア抑留に遭う。

1946年に復員し、再建された新協劇団に入団。1953年に松竹制作の『雲ながるる果てに』で映画初出演。

1954年10月、木村功岡田英次らと共に劇団青俳の結成に参加。その後は映画・テレビで脇役として活躍。特にNHKのテレビドラマ『事件記者』では新日本タイムスの荒木記者(通称:おとぼけのアラさん)役でレギュラー出演し、人気を博した。

1965年5月に体調不良で入院、胃がんの兆候が認められ2か月治療を受けたが病状が変わらず、再入院を希望して所属の劇団青俳に退団を申し出たが、経営が悪化していた劇団側がこれを受理せず、出番の直前まで横になっている状況のなか働き続けていた[2]

1966年1月31日夕方、『事件記者』第271話「執念」の収録を終えて帰宅、翌2月1日午前2時半頃、自宅の寝室で急死。当初は過労による心臓麻痺と報道されたが、数日後に実は首吊り自殺であった事が判明。急病死での発表は劇団側の勧めで遺族も同意の上だったが、後日、劇団幹部の不誠実さに憤慨した妻が暴露した[2]

主な出演作品

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テレビドラマ

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  • ビルマの竪琴(1955年、NHK
  • 小鳥寺(1957年、NTV
  • お好み日曜座 / にしん場(1958年、NHK)
  • 事件記者(1958年 - 1966年、NHK) - 新日本タイムス記者・荒木
  • 私は貝になりたい(1958年、KRT) - 木村軍曹
  • テレビ劇場(NHK)
    • 恋文(1959年)
    • ばちあたり(1960年)
  • 剣豪秘伝 第20話「清兵衛の最後」(1960年、NET
  • ミステリー 影 / くずれる(1960年、NET)
  • 西鶴物語 第12話「長持の行方」・第21話「相惚れ女郎」(1961年、NET)
  • NECサンデー劇場(NET)
    • 奈穂子(1961年)
    • 消えたフットライト(1961年)
  • 東芝日曜劇場TBS
    • 第247回「上り勾配」(1961年、RKB
    • 第327回「ふりむけばひとり」(1963年)
    • 第381回「女優シリーズ 雪女」(1964年)
  • ドキュメンタリードラマ / 指名手配 第93回「鉄火場」(1961年、NET)
  • テレビ指定席(NHK)
    • 賭ける(1961年)
    • マッチ箱の家(1962年)
    • 町が呼んでいる(1962年)
    • 海の畑(1963年)
    • ある結婚(1963年)
    • 孤独の空(1963年)
  • 青年弁護士 第5話「灰色の過去」(1963年、NTV / 東映
  • 文芸劇場 第59回「江戸文学シリーズ 世はさまざまの」(1963年、NHK)
  • 父子鷹(1964年、TBS) 中村竹弥
  • 剣は知っていた(1965年、CX
  • 近鉄金曜劇場 / 岡田茉莉子シリーズ 居留地の女(1965年、TBS)
  • 東京警備指令 ザ・ガードマン 第27話「不敵な逃亡者」(1965年、TBS)
  • 黄色い風土(1965年 - 1966年、NET / 東映)

映画

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脚注

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注釈

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  1. ^ 東京出身と記載している資料もある[1]

出典

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  1. ^ a b c d 「新劇俳優名鑑」『新劇便覧』テアトロ、1965年、262頁。 
  2. ^ a b c 『我、自殺者の名において : 戦後昭和の一〇四人』若一光司 徳間書店 1990 p95-97
  3. ^ 安寿と厨子王丸”. メディア芸術データベース. 2016年10月29日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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