深沢義守
深沢 義守(ふかざわ よしもり、1905年10月1日 - 1966年12月14日)は、日本の政治家、農民運動家。衆議院議員(日本共産党公認)を1期務めた。
来歴
編集出生〜戦前
編集山梨県南巨摩郡身延村(現・身延町)大野生まれ。日本大学在学中より山梨県内各地で農民運動に関わり、昭和初期以降、日本共産党の強い影響下にあった[1] 全国農民組合全国会議派県連書記長を務める事となる。
1930年には奥野田村(現・甲州市)の小作争議で主導的な役割を果たした他、翌年5月1日に行われた県初のメーデーでは中巨摩郡東部・東八代郡西部2地区の指導者として活躍。また、1930年3月1日発足の甲府消費組合では組合長も務めた[2]。この間、治安維持法違反により検挙される事10数度を重ね、1933年に発生した山梨共産党事件に連座し投獄、2年間にわたる服役の後、郷里を離れた。
戦後
編集日本社会党時代
編集終戦直後より政治活動を再開、日本社会党県連組織長や日本農民組合県連組織部長、峡南農民組合委員長を歴任。しかし右派の領袖である平野力三農相らと絶縁の後、山梨社会党を独自に結成。県下の農地解放や食料確保に奔走する。
日本共産党時代
編集1949年日本共産党に入党。同年の第24回衆議院議員総選挙で山梨県全県区より立候補、定数5のうち4位で初当選を果たし、県初の共産党代議士となった。国会では予算委員や農林委員を務める。当選1回。1952年からは日本農業組合統一派[3]常任中央委員となるも、「50年問題」を巡り党との対立を経て、離党を余儀無くされる。離党の経緯については、週刊朝日昭和28年2月15日号にて手記を寄稿[4]。
晩年
編集共産党離党後は首都圏住宅生活協同組合常任理事を務めていたが、1966年12月14日、61歳で死去。1969年には青山墓地の解放運動無名戦士墓に合祀された。
政歴
編集出典: [5]
- 1949年 第24回衆議院議員総選挙 山梨県全県区 当選[6]
- 1952年 第25回衆議院議員総選挙 山梨県全県区 落選[7]
著書
編集関連項目
編集脚注
編集- ^ 全農全会派の解体 ――総本部復帰運動と共産党多数派結成 横関至
- ^ 山梨における協同組合の展開-産業組合と消費組合を中心に- 山梨学院大学 堀越芳昭
- ^ 日本労働年鑑 第25集 1953年版 第二部 労働運動 第三編 農民運動 法政大学大原社会問題研究所
- ^ 「私はなぜ離党したか」国分書店WEB目録
- ^ 選挙履歴 国会議員白書
- ^ 『第24回衆議院議員総選挙一覽』衆議院事務局、1949年、277-291頁。
- ^ 『第25回衆議院議員総選挙一覽』衆議院事務局、1953年、367-381頁。
- ^ 『私はなぜ共産党に入ったか』紹介文国会図書館サーチ