浜田弘
浜田 弘(はまだ ひろし、1899年(明治32年)3月31日[1] - 1983年(昭和58年)10月8日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
編集愛媛県出身[1][2]。1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校第32期卒業[3]。1929年(昭和4年)陸軍大学校第41期卒業[4]。
支那派遣軍参謀として支那事変に出動したのち、陸軍歩兵学校教官を経て、1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進み、第37師団参謀長に補される[2]。ついで南京政府軍事顧問に転じ、歩兵第232連隊長[5][注 1]となる[2]。大東亜戦争に入ると南方軍隷下の第29軍政監部総務部長に就任し、同軍の第94師団参謀長を経て、終戦時は第25軍政監部総務部長としてスマトラ・ブキティンギにあった[1]。この間、1945年(昭和20年)6月10日、陸軍少将に進級した[1][2]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。