津田正生
尾張国の郷土史家
津田正生(つだ まさなり、安永5年(1776年)4月 - 嘉永5年10月21日(1852年12月2日)[1])は、尾張国海東郡根高村(現愛知県愛西市根高町)の学者(地誌家、郷土史家)。通称として神助(三輪助[1])がある[2]。号は六合庵(主)。
人物情報 | |
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別名 | 神助、三輪助(通称)、六合庵(号) |
生誕 |
安永5年(1776年)4月 日本尾張国海東郡根高村 (現 愛知県愛西市根高町) |
死没 | 嘉永5年10月21日(1852年12月2日) |
両親 | 父・與治兵衛盛政(酒造業) |
学問 | |
主要な作品 | 『尾張国地名考』 |
影響を受けた人物 | 恩田仲任・鈴木朖 |
人物
編集生家は酒屋である[2]。恩田仲任や鈴木朖に教えを受ける[2]。津島街道(上街道)沿いに「六合庵」と称する茶席を設置し、旅人を湯茶により歓待し、各地の情報を得ていたとされる[3]。
墓所は釜地蔵寺(根高町)内にある[4]。また、住居跡碑が釜地蔵寺前の民家の庭先に置かれている[4]。嫡男津田穂積(水穂部穂積)は国学者で、橘守部の高弟。[5]。
略年譜
編集- 安永5年(1776年)4月 - 尾張国海東郡根高村の酒造業父與治兵衛盛政の子として誕生する[6]。
- 寛政12年(1800年) - 『二世契約空鉄砲』を著す[7]。
- 文化3年(1806年) - 『婚姻男子訓』を著す[7]。
- 文化4年(1807年) - 『尾張国地名考』の執筆を始める[7]。
- 文化13年(1816年) - 『尾張国地名考』が完成する[7]。
- 文政11年(1828年) - 『眼前教近道』を著す[7]。
- 天保4年(1833年) - 槍ヶ岳に登頂し、『槍ヶ岳日記』を著す[7]。
- 天保7年(1836年) - 『尾張国地名考』を尾張藩に上納する[7]。
- 弘化3年(1846年) - 『婚姻男子訓』を『良姻心得草』と改題し、再版する[7]。
- 弘化5年(1848年) - 細野要斎が六合庵を訪れる(要斎『感興漫筆』弘化五年正月八日条)[7]。
- 嘉永3年(1850年) - 『尾張神名帳集訂考』を著す[7]。
- 嘉永5年(1852年)10月21日 - 没[7]。
著書
編集脚注
編集- ^ a b 「尾張國地名考ノ著者津田正生先生の小傳」『尾張國地名考』愛知縣海部郡教育會、1916年(愛知県郷土資料刊行会復刻刊行、1970年)、ページ番号なし
- ^ a b c d e f 愛知県姓氏歴史人名大辞典編纂委員会 1991, p. 508.
- ^ 愛知県小中学校長会・愛知県小中学校PTA連絡協議会・名古屋市立小中学校PTA協議会 2007, pp. 86–87.
- ^ a b 愛知県小中学校長会・愛知県小中学校PTA連絡協議会・名古屋市立小中学校PTA協議会 2007, p. 88.
- ^ 田島仲康「上梓のことば」津田正生『尾張神名帳集説本之訂考』尾張大国霊神社翻刻、1978年、ページ番号なし
- ^ 佐織町史編さん委員会・佐織町史調査編集委員会 1989, p. 144.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 佐織町史編さん委員会・佐織町史調査編集委員会 1989, p. 145.
参考文献
編集- 佐織町史編さん委員会・佐織町史調査編集委員会 編『佐織町史 通史編』1989年11月3日。
- 愛知県姓氏歴史人名大辞典編纂委員会『角川日本姓氏歴史人物大辞典 23 愛知県』角川書店、1991年10月30日。ISBN 4-04-002230-0。
- 愛知県小中学校長会・愛知県小中学校PTA連絡協議会・名古屋市立小中学校PTA協議会 編『親と子のあいちの散歩道 PART II』財団法人愛知県教育振興会、2007年6月25日。ISBN 978-4-900010-06-2。
- 「尾張國地名考ノ著者津田正生先生の小傳」『尾張國地名考』愛知縣海部郡教育會、大正5年(愛知県郷土資料刊行会復刻刊行、昭和45年)、ページ番号なし
- 田島仲康「上梓のことば」津田正生『尾張神名帳集説本之訂考』尾張大国霊神社翻刻、1978年、ページ番号なし