泰翁慶岳
泰翁 慶岳(たいおう けいがく、明応9年(1500年) - 天正2年(1574年)[1])は、戦国時代の浄土宗西山深草派の僧侶。京都誓願寺51世住職[2]。三河国出身で、徳川家康のために朝廷との交渉の斡旋にあたったとされる。
経歴
編集三河国岡崎の生まれ[2]。三浦為通の末裔(三浦氏)を称し、三浦市右衛門直元の長男とされる[3]。
大林寺(岡崎市魚町)4世住職を経て、京都誓願寺の51世住職となった[2]。永禄8年(1565年)から翌9年(1566年)にかけて『言継卿記』にたびたび登場する[2]。この時期、誓願寺は円福寺・三福寺との訴訟を繰り広げていたが勝訴をおさめ[2]、永禄9年(1566年)2月8日に弟子の慶源らを率いて三河に下向したとある[2]。三河への帰国後は、三河で誓願寺系の教線を伸ばすとともに、たびたび京都に慶源を派遣したという[2]。
永禄9年(1566年)の家康の松平から徳川への改姓[2][3]や、官位について[2]、京都での人脈を通じて尽力したとされる[2]。家康は諏訪明神の傍らに寺を建てて泰翁に与えた[2]。これが岡崎市梅園町の誓願寺(諏訪山泰翁院)の興りで、泰翁が開山とされている[2]。里村紹巴の『富士見道記』にも登場する[2]。
家康に仕え、三河国宇野辺・上野の代官を務めた三浦直升(1530年 - 1602年)は弟という[3]。直升の子孫は江戸幕府の旗本となった[3]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第五百二十三
- 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082714/415
- 内藤佐登子『紹巴富士見道記の世界』続群書類従完成会、2003年。
- 『新編岡崎市史』(新編岡崎市史編さん委員会、1983年)