泉谷 祐勝(いずみたに すけかつ、1882年明治15年〉3月 - 1967年昭和42年〉2月3日)は、日本アマチュア野球選手。黎明期の早稲田大学野球部の中心選手であり、後には宮内省野球班を組織した。守備位置は捕手一塁手慶應義塾大学野球部の主将を務めた佐々木勝麿は実弟。

泉谷 祐勝
第1回早慶戦の両校選手
(1903年11月21日。後列右から4人目が泉谷祐勝)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県神戸元町通
(現・神戸市中央区)
生年月日 1882年3月
没年月日 (1967-02-03) 1967年2月3日(84歳没)
選手情報
ポジション 捕手一塁手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

経歴

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兵庫県神戸元町通(現・神戸市中央区)出身。実家は浄土真宗本願寺派善照寺。元の姓は佐々木であったが、幼い頃母方の養子に出されて泉谷姓となった。

神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)を経て、1902年(明治35年)東京専門学校(現・早稲田大学)に入学する。野球部に入部し、翌年の第一回早慶戦の際には1番キャッチャーで出場している。また、後に野球部がアメリカ遠征をした際のメンバーにも選ばれた。

卒業後、志願兵を務めた後に京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)に入社した。これは、泉谷が所属していたスポーツ社交団体「天狗倶楽部」のメンバーである中沢臨川文芸評論家)が同社の電気課長を務めていたことによる。 ここでは羽田運動場の運営などに関わり、また、1911年(明治44年)にストックホルムオリンピック予選会が開かれた際には100m走立幅跳びに出場し、100m走では三島彌彦に敗れたものの立幅跳びでは優勝している[1]。ただし、選手団をストックホルムに送る予算の都合もあり、泉谷は代表選手には選ばれなかった[2]

1914年大正3年)、宮内省に入省した。泉谷はこの時、裕仁親王(後の昭和天皇)の内意を受けて宮内省野球班を組織することになる。

1925年(大正14年)、宮内省を退職し東邦電力に入社し、この間に泉谷は東京大学野球連盟(現・東京六大学野球連盟)の常務理事にも就任している。

1967年昭和42年)2月3日、死去した。泉谷の野球に関する遺品が秩父宮記念スポーツ博物館に寄贈されている。

エピソード

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  • 日本で初めてバントをした人物であるとされる。
  • 泉谷はバントの名手であったが、当時の日本ではバントがあまり知られておらず、野球部の安部磯雄部長に「卑怯な打ち方はいけない」と叱られた。アメリカ遠征の際、本場の選手もバントをしているのを見てやっと安部に納得してもらえたという。

脚注

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出典

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  1. ^ 「世界の記錄を破る」東京朝日新聞1911年11月21日付朝刊、5ページ
  2. ^ 【三島弥彦の生涯】金栗四三と並ぶ日本人初のオリンピック選手”. 歴人マガジン. チャンネル銀河 (2019年1月1日). 2022年2月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月3日閲覧。

参考文献

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  • 横田順彌『[天狗倶楽部]快傑伝 元気と正義の男たち』 朝日ソノラマ 1993年
  • 桑原稲敏『天皇の野球チーム スコアブックの中の昭和史』 徳間書店 1988年