沢田節蔵
沢田 節蔵(澤田 節蔵、さわだ せつぞう、1884年(明治17年)9月9日 - 1976年(昭和51年)7月4日)は、日本の外交官。
さわだ せつぞう 沢田 節蔵 | |
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生誕 |
1884年9月9日 鳥取県岩井郡浦富村 |
死没 | 1976年7月4日(91歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
職業 | 外交官、教育者、実業家 |
人物
編集鳥取県岩井郡浦富村(のち岩美郡岩美町)出身。東京帝国大学法学部卒業後、外務省に入省、のちに国際連盟帝国事務局長、ブラジル大使を歴任。平和主義者で英米派の立場に立ったリアリストでもあり、国際連盟脱退にあたっては強く反対。大戦時には鈴木貫太郎内閣顧問となり、第二次世界大戦の早期終結のため、カトリッククリスチャンとしてバチカンへの働きかけも図った。戦後は、佐藤尚武らと共に、「霞が関」の長老として重きをおかれると同時に、多方面で活躍。文化放送を設立し会長。1949年東京外国語大学初代学長に就任。世界経済調査会会長。日伯協会会長。
外交官沢田廉三(元国連大使、妻美喜は三菱財閥本家男爵岩崎久弥の長女でエリザベス・サンダースホーム創設者)と実業家沢田退蔵(富士紡績元専務、妻光子は米紙Time表紙になった初日本経済人・東京海上元会長各務鎌吉と岩崎弥太郎・弥之助の姪繁尾の一人娘)は共に弟で、澤田三兄弟として有名。
また長妹は広岡貞子(夫松三郎は元大同生命社長で広岡財閥主人信五郎の長男)、次妹は平生愛子(夫太郎は元山武常務で、甲南学園創設者・元文部大臣・枢密顧問官平生釟三郎の長男)、三妹は山本菊子(夫博は元博進社社長)。
栄典
編集- 位階
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[2]
家族親族
編集著書
編集- 『澤田節蔵回想録 一外交官の生涯』澤田壽夫(寿夫)編、有斐閣、1985年。ISBN 4641099545
- 復刻版「日本外交史人物叢書 第19巻」ゆまに書房、2002年。ISBN 4843306851
- 『皇太子殿下 御外遊記』大阪毎日新聞社、1924年
- 二荒芳徳と共著、皇太子裕仁親王の欧州訪問の随行記
出典
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