水間寺
水間寺(みずまでら)は、大阪府貝塚市水間にある天台宗の別格本山の寺院。山号は龍谷山。本尊は聖観世音菩薩。水間観音の通称で知られる。新西国三十三箇所第4番札所。周辺とともに大阪みどりの百選に選定されている[1]。
水間寺 | |
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三重塔 | |
所在地 | 大阪府貝塚市水間638 |
位置 | 北緯34度23分55.89秒 東経135度23分8.18秒 / 北緯34.3988583度 東経135.3856056度座標: 北緯34度23分55.89秒 東経135度23分8.18秒 / 北緯34.3988583度 東経135.3856056度 |
山号 | 龍谷山 |
院号 | 観音院 |
宗派 | 天台宗 |
寺格 | 別格本山 |
本尊 | 聖観世音菩薩 |
創建年 | 天平年間(729年 - 749年) |
開山 | 行基 |
開基 | 聖武天皇(勅願) |
別称 | 水間観音 |
札所等 |
新西国三十三箇所第4番 和泉西国三十三箇所第26番 南海沿線七福神(弁財天) 神仏霊場巡拝の道第53番(大阪第12番) |
文化財 | 本堂、三重塔、行基堂ほか(市指定有形文化財) |
公式サイト | 水間寺公式ホームページ |
法人番号 | 8120105006088 |
歴史
編集寺伝によれば、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により行基が開創したものという。行基は、病床の聖武天皇の夢に現れた観音菩薩を求め、白鳥(しらとり)に南西の方向に導かれたが、その白鳥は和泉国で羽根だけを残し何処へともなく消え去り(この地は現・貝塚市鳥羽だという)、彷徨いながら北東の方向へ進んで行くと、16人の童子(観音菩薩の化身)に遭遇し(この地は現・貝塚市清児といい、稚児塚の伝承地が現存する)、その童子に案内され、行基が2つの川が合流する「水間」の地に着き、誘われて滝に向かうと竜神が現れ、聖観音像を授けられたと伝わっている。その滝は、現在の本堂の裏を流れる秬谷川にあったらしく、現在は岸辺に設置されたフェンスに「聖観音菩薩出現の滝」と墨でかかれたボードが設置されている。
中世より武家による手厚い保護を受けていたが、羽柴秀吉による紀州征伐の際に根来寺に与したため、天正13年(1585年)に堀秀政の軍勢に攻められて焼失した。一時衰退したものの、岸和田藩主岡部氏 の帰依を受け、元禄年間(1688年 - 1704年)には堂宇も再建された。その後、天明4年(1784年)の火災で再び焼失。しかし、文化8年(1811年)に岸和田藩主岡部長慎により本堂が再建され、文政10年(1827年)には他の堂宇も再建された。
貞享5年(1688年)に刊行された井原西鶴の『日本永代蔵』の第1話「初午は乗て来る仕合」に「泉州水間寺利生の銭」と記されたことで全国的に知られるようになった。1925年(大正14年)には参拝客を運ぶための水間鉄道水間線が開通している。
最近、行基菩薩を聖観音像が待つ「降臨の滝」まで導いた十六童子に因み、水間鉄道清児駅を起点に水間観音駅から「水間寺境内」までの間の「厄除け街道」に、障がい者支援施設「土の子陶房」で制作された焼物の「厄除け十六童子・脇導師」一対ずつが16箇所に設置され、参詣者の新しい楽しみとなっている。
境内
編集- 本堂(貝塚市指定有形文化財) - 文化8年(1811年)に岸和田藩主岡部長慎により再建。
- 三重塔(貝塚市指定有形文化財) - 天保5年(1834年)再建。明治以前に建てられた大阪府内唯一の三重塔である。
- 護摩堂
- 鐘楼
- 経堂
- 常寂光堂
- 三所権現 - 祭神:熊野権現、蔵王権現、白山権現
- 赤宮 - 祭神:稲荷神
- 庫裏
- 愛染堂
- お夏と清十郎の墓 - 歌舞伎や人形浄瑠璃の主人公の墓。
- 行基堂(貝塚市指定有形文化財)
- 薬師堂
- 弁天堂
- 瑞泉堂
- 南の院
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本堂
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経堂
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鐘楼
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聖観世音出現の滝
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太鼓橋
文化財
編集貝塚市指定有形文化財
編集貝塚市指定無形民俗文化財
編集- 水間千本搗餅つき(水間千本搗餅つき若中保存会)[2]