水野甚次郎
水野 甚次郎(みずの じんじろう)は、広島県を本拠とし、はじめ売薬業、のち土木請負業者となった水野組(現・五洋建設)創業者一族の名跡。
- 初代 水野甚次郎
- 委細不詳。
- 二代目 水野甚次郎
- 委細不詳。
- 四代目 水野甚次郎
- 幼名・佐蔵、1858年11月25日(安政5年10月20日) - 1928年(昭和3年)12月21日。数え15のとき父が病に倒れ学業を中断、1874年(明治7年)四代目水野甚次郎を襲名して家督を継ぐ。その後宮原村の村会議員を務めていたが、呉鎮守府が設置されて近県から呉に多くの労働者が集まるようになると、1890年(明治23年)地元の有力下請業・神原組に請われてその会計渉外担当者となり、土木業界に入る。当時日本屈指のドック建設者だった恒川柳作[1]が監督を務める呉海軍工廠第一船渠工事で実績を挙げ、1893年(明治26年)には神原組を改組して宮原土木同盟会社を設立しその代表に就任。1895年(明治28年)恒川の推薦で横浜船渠会社潮止工事の下請けを受注し関東に進出。翌1896年(明治29年)宮原村の自宅に個人経営の水野組(現・五洋建設)を設立して独立した[2]。こののち川崎造船所神戸船渠埋立潮止工事、大阪築港護岸工事、舞鶴海軍工廠船渠潮止工事、佐世保海軍工廠船渠船台工事など、各地の港湾土木工事を次々と成功させて技術と信用を高め、「水の土木の水野組」の評判をとった[3]。大正に入ると陸上の土木建築も手掛け、1914年(大正3年)台湾の馬公海軍官舎の工事を担当して外地にも進出、今日の五洋建設の基礎を確立した。晩年は呉市の市会議員も務めた。