武威郡
概要
編集もとは匈奴の休屠王の領地であった。紀元前101年(前漢の太初4年)、武威郡が置かれた。武威郡は涼州に属し、姑臧・武威・張掖・休屠・揟次・樸𠟼・倉松・鸞鳥・媼囲・宣威の10県を管轄した。王莽のとき、張掖郡と改称された[1]。
後漢が建てられると、武威郡の称にもどされた。武威郡は姑臧・武威・張掖・休屠・揟次・樸𠟼・倉松・鸞鳥・媼囲・宣威・顕美・鶉陰・祖厲・左騎の14県を管轄した[2]。
晋のとき、武威郡は姑臧・宣威・揟次・倉松・顕美・驪靬・番和の7県を管轄した[3]。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、涼州の属郡の武威郡は廃止された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、涼州は武威郡と改称された。姑臧・昌松・番和・会寧の4県を管轄した[5]。
619年(武徳2年)、唐が李軌を平定すると、武威郡は涼州と改められ、涼州総管府が置かれた。742年(天宝元年)、涼州は武威郡と改称された。758年(乾元元年)、武威郡は涼州と改称され、武威郡の呼称は姿を消した[6]。