歌川国松
歌川 国松(うたがわ くにまつ、旧字体:歌川國松󠄁、安政2年〈1855年〉 - 昭和19年〈1944年〉3月19日)とは、江戸時代後期から昭和時代にかけての浮世絵師。後に「五代目歌川豊国」と追号された。
来歴
編集歌川国鶴の門人。歌川国鶴の三男で、二代目歌川国鶴の弟。姓は和田、名は国次郎。一龍斎、一応斎、福堂と号す。晩年には玩舟と号した。一時期、二代歌川豊重または一龍斎豊重と名乗ったが、まもなく福堂国松と改めた。左利きであった。12歳の時、江戸田所町の古着商大黒屋へ丁稚奉公に出ている。明治初年に横浜吉田町の実家に戻り、父国鶴のもとで浮世絵を学び画技を修めた。父の死後、明治12年(1879年)25歳のときには横浜吉田一丁目七にある自宅で版元を開業した後、上京して版元丸屋銕次郎の世話によって小林永濯に入門し、その頃荒磯新聞に挿絵を描いている。続いて豊原国周の門にも入り、『有喜世新聞』に入社した。また明治17年(1884年)に大坂『此花新聞』に招聘され、二年間在阪し、朝鮮事変関係の錦絵などに筆を振るった。このころから明治45年(1912年)にかけて須藤南翠、坪内逍遥、広岡柳香、巖谷小波、江見水蔭、大橋乙羽らの単行本小説の口絵を多色摺り木版画で描いている。後に帰京して雑誌や『東京絵入新聞』、『絵入朝野新聞』、『毎日新聞』、『あけぼの新聞』などに挿絵を描いた。明治22年(1889年)には京都の『日出新聞』に挿絵画家として招かれ、明治36年(1903年)まで京で居を構え作画をした。同年に一時東京へ帰京し、『東京絵入新聞』などの挿絵を描いたのち再び大坂へ赴き、『浪花新聞』などの新聞に挿絵を描いた。また本屋、絵葉書屋を営んだ。大正10年(1921年)ごろには再び東京へ帰京。さらにオットマン・スモリックに石版画も学んだようであった。豊重の落款では「横浜ステーション之図」や「横浜新海地高島町鉄道之真図」、国松として「横浜名勝競」のシリーズなどの横浜絵が知られている。明治期には合巻『恋娘昔八丈』一冊(柳水亭種清作)の挿絵を描いている。
挿絵は明治12年から明治20年頃に多くの新聞や雑誌において手がけている。明治10年代に手がけた雑誌の例として、『花岡奇縁譚 東京に開き横浜に薫る』や『思案橋暁天奇聞』が挙げられる。何れも明治15年(1882年)のものである。また、大正の頃には主に千社札の絵や役者絵を描いていた他、肉筆浮世絵や写真撮影所の背景画なども描いていた。「幕末明治風俗図」の96枚目「質屋(未完)」の画中にある六角の行灯がどうしても描けぬと妻きみに語り、間もなく寝付いて筆を持たなくなったといわれる。東京都台東区老松町にて没す。享年90。墓所は港区芝の増上寺内常行院。
作品
編集錦絵
編集- 「横浜高嶋町神風楼之図」大錦3枚続 神奈川県立歴史博物館所蔵 明治8年(1875年)
- 「東京第一等之劇場新富座繁栄之図」 大錦3枚続 明治11年(1878年) 日本浮世絵博物館所蔵
- 「横浜名勝競 本町通郵便局」大錦 揃物の内 神奈川県立歴史博物館所蔵 明治13年(1880年)
- 「横浜名勝競 内田町よりステンションの図」大錦 揃物の内 神奈川県立歴史博物館所蔵 明治13年(1880年)
- 「第二回勧業博覧会図」 大錦3枚続 明治14年(1881年)
- 「鹿児島征討記」大錦 明治15年(1882年)
- 「朝鮮事件」大錦3枚続 東京経済大学図書館所蔵 明治15年(1882年)
- 「朝鮮暴徒防禦図」大錦3枚続 東京経済大学図書館所蔵 明治15年(1882年)
- 「朝鮮変報」大錦3枚続 東京経済大学図書館所蔵 明治15年(1882年)
- 「朝鮮変報 激徒暴戦之図」大錦3枚続 東京経済大学図書館所蔵 明治15年(1882年)
- 「東都第一等之劇場新富座繁栄之図」大錦3枚続 日本浮世絵博物館所蔵 明治15年(1882年)
- 「日韓紛議結局談判図」 大錦3枚続 明治15年(1882年)
肉筆浮世絵
編集口絵
編集- 「南海紀聞誉音信」 柳条亭華彦作 駸々堂版 明治17年
- 「茨木阿滝扮白糸」 須藤南翠作 金泉堂版 明治19年
- 「京童」 坪内逍遥作 鈴木書店版 明治19年
- 「痴人の夢」 須藤南翠作 晩青堂版 明治20年
- 「片輪車」 広岡柳香作 駸々堂版 明治23年
- 「試金石」 須藤南翠作 金桜堂版 明治26年
- 「蝸牛」巌谷小波作 駸々堂版 明治26年
- 「鳰の浮巣」 巌谷小波作 駸々堂版 明治28年
- 「花見茶屋」 巌谷小波作 宋栄堂版 明治29年
- 「鵜飼舟」 江見水蔭作 吉岡書店 明治29年
- 「二人若衆」 大橋乙羽作 駸々堂版 明治29年
- 「当世息子」 須藤南翠作 駸々堂版 明治29年
- 「後之山鹿流布施源兵衛」 玉秀斎作 駸々堂版 明治45年
出典
編集参考文献
編集関連項目
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