歌川一豊
江戸時代から明治時代にかけての浮世絵師
来歴
編集歌川芳艶の門人。初名は艶豊(つやとよ)、一耀斎と号す。作画期は文久から明治にかけてとされる。慶応3年(1867年)刊行の『くまなき影』によれば、神田に住み八百屋を営んでいたので「市場豊」(いちばとよ)と呼ばれた。芳艶の門人となり、はじめ艶豊と名乗って絵を描くようになった。重い疱瘡に罹って面相が鬼のようになってしまったが、その志は仏のようだったので或る人が「鬼仏」(きぶつ)という号を贈ったという[1]。『浮世絵師伝』は俗称を「豊後」とし、初名を「艶春」とするが艶豊が正しい。作は東京雑司ヶ谷鬼子母神に、「一耀斎艶豊」と落款した絵馬が知られる。
作品
編集脚注
編集- ^ 威光山法明寺 近江正典編 『雑司ヶ谷鬼子母神堂開堂三百五十年・重要文化財指定記念 雑司ヶ谷鬼子母神堂』 勉誠出版、2016年11月28日、pp.90,135、ISBN 978-4-585-21036-8。
参考文献
編集- 井上和雄 『浮世絵師伝』 渡辺版画店、1931年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり[2]。
- 威光山法明寺・近江正典編 『雑司ヶ谷鬼子母神堂開堂三百五十年・重要文化財指定記念 雑司ヶ谷鬼子母神堂』 勉誠出版、2016年