橋本夏子
日本の明治時代の公家、明治天皇の側室
橋本 夏子(はしもと なつこ、1856年3月19日〈安政3年2月13日〉- 1873年〈明治6年〉11月14日)は、江戸時代末期から明治時代の公家女性。明治天皇の側室で典侍。
橋本夏子肖像 | |
時代 | 江戸時代末期(幕末) - 明治時代 |
生誕 | 安政3年2月13日(1856年3月19日) |
死没 |
明治6年(1873年)11月14日 享年18(満17歳没) |
別名 | 小桜典侍、糸桜典侍 |
墓所 | 護国寺(東京都文京区大塚) |
官位 | 正五位 |
氏族 | 東坊城家→橋本家 |
父母 |
父:東坊城夏長、母:橋本麗子 養父:橋本実麗、養母:萩原静子 |
兄弟 | 夏子、房子 |
子 | 稚高依姫尊 |
来歴
編集父は東坊城夏長、母は橋本麗子で、母方の祖父橋本実麗の養女となる。父方の祖父は東坊城聡長。義兄(実麗の養嗣子)に橋本実梁、叔母(母の実妹)に橋本松子、義甥(実梁の子)に橋本実穎。また、仁孝天皇の典侍で和宮親子内親王の生母の観行院(橋本経子)は実麗の妹で、夏子の義叔母・実の大叔母にあたる。
明治5年(1872年)に典侍となる。宮中では小桜と言われ、明治6年(1873年)11月13日に第一皇女・稚高依姫尊を出産するが死産であり、夏子もその翌日に産後の経過不良により急逝した。享年18(満17歳)。豊島岡墓地に隣接する護国寺墓地に葬られた。
昭憲皇太后 (一条美子) (1849-1914) | |||||||||||||||
子女無し | |||||||||||||||
葉室光子 (1853-1873) | |||||||||||||||
稚瑞照彦尊 (1873・第一皇男子/第一子・死産 ) | |||||||||||||||
橋本夏子 (1856-1873) | |||||||||||||||
稚高依姫尊 (1873・第一皇女子/第二子・死産 ) | |||||||||||||||
明治天皇(第122代天皇) | |||||||||||||||
梅宮薫子内親王 (1875-1876・第二皇女子/第三子・夭折 ) | |||||||||||||||
建宮敬仁親王 (1877-1878・第二皇男子/第四子・夭折 ) | |||||||||||||||
明宮嘉仁親王 (1879-1926・第三皇男子/第五子・大正天皇:第123代天皇) | |||||||||||||||
柳原愛子 (1855-1943) | |||||||||||||||
滋宮韶子内親王 (1881-1883・第三皇女子/第六子・夭折 ) | |||||||||||||||
増宮章子内親王 (1883・第四皇女子/第七子・夭折 ) | |||||||||||||||
千種任子 (1856-1944) | |||||||||||||||
久宮静子内親王 (1886-1887・第五皇女子/第八子・夭折 ) | |||||||||||||||
昭宮猷仁親王 (1887-1888・第四皇男子/第九子・夭折 ) | |||||||||||||||
常宮昌子内親王 (1888-1940・第六皇女子/第十子) | |||||||||||||||
竹田宮恒久王 | |||||||||||||||
周宮房子内親王 (1890-1974・第七皇女子/第十一子) | |||||||||||||||
北白川宮成久王 | |||||||||||||||
富美宮允子内親王 (1891-1933・第八皇女子/第十二子) | |||||||||||||||
朝香宮鳩彦王 | |||||||||||||||
満宮輝仁親王 (1893-1894・第五皇男子/第十三子・夭折 ) | |||||||||||||||
泰宮聡子内親王 (1896-1978・第九皇女子/第十四子) | |||||||||||||||
東久邇宮稔彦王 | |||||||||||||||
貞宮多喜子内親王 (1897-1899・第十皇女子/第十五子・夭折) | |||||||||||||||
園祥子 (1867-1947) | |||||||||||||||
出典
編集- 『華族家系大成』