橋本勝太郎
橋本 勝太郎(はしもと かつたろう、1862年6月20日(文久2年5月23日[1][2]) - 1946年(昭和21年)5月24日[1][2])は、日本の陸軍軍人、社会事業家。最終階級は陸軍中将。
経歴
編集岐阜県出身[1][2][3]。橋本与左衛門の長男として生れる[1]。1878年(明治11年)4月、陸軍教導団に入団し、1879年(明治12年)7月、歩兵伍長に任官し東京鎮台付となる[1]。1886年(明治19年)6月25日、歩兵少尉に任官し[4][5]、同月28日、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し[6][7]歩兵第9連隊小隊長に就任[8]。1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を優等で卒業した[2][3][9]。
1894年(明治27年)11月、歩兵大尉に進み陸士教官に就任[1]。大本営付(連合艦隊参謀)、台湾総督府副官、同参謀、近衛師団参謀、陸士教官、陸大教官、留守近衛師団参謀長 [3]を務め、1904年(明治37年)3月、歩兵中佐に進級[1]。同年4月、鎮南浦碇泊場司令官に就任し、同年10月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征[1]。1904年11月、後備第1師団参謀長に発令され奉天会戦などに参戦した[1][2][3]。
1906年2月、近衛歩兵第3連隊長に就任し、同年12月、歩兵大佐に昇進[1][3]。1907年(明治40年)11月、 第1師団参謀長に就任[1][3]。同師団司令部付を経て、1910年(明治43年)11月、陸軍少将に進級し歩兵第24旅団長に就任[1][2][3]。独立守備隊司令官、陸士校長を歴任[1][2][3]。1915年(大正4年)2月、陸軍中将に進み憲兵司令官に就任[1][2][3]。1916年(大正5年)3月、第9師団長に親補された[1][2][3]。1919年(大正8年)7月、待命となり、1920年(大正9年)2月、予備役に編入された[1][2][3]。
栄典
編集- 位階
- 1886年(明治19年)11月27日 - 正八位[12]
- 1892年(明治25年)1月27日 - 従七位[13]
- 1904年(明治37年)4月29日 - 正六位[14]
- 1907年(明治40年)2月12日 - 従五位[15]
- 1911年(明治44年)2月10日 - 正五位[16]
- 1915年(大正4年)3月10日 - 従四位[17]
- 1917年(大正6年)3月30日 - 正四位[18]
- 1920年(大正9年)2月28日 - 従三位[19]
- 勲章
著作
編集- 『経済的軍備の改造』隆文館、1921年。
- 『平和の支へ : 文武協調』弘道館、1922年。
- 『両親に告ぐ』日本少年指導会、1936年。
- 『伸びゆく子供をどうするか』日本少年指導会、1936年。
- 述『犯罪と徳性』日本少年指導会、1938年。
- 述『不良矯正犯罪治療新論』日本少年指導会、1939年。
- 『少年の性格と環境』同文館、1942年。
- 鈴木四郎編『嵐の子供』日本少年指導会、1934年。
親族
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本陸海軍総合事典』第2版、123-124頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』571頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』74頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』73-74頁。
- ^ 『官報』第897号、明治19年6月29日。
- ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、625頁。
- ^ 『官報』第899号、明治19年7月1日。
- ^ 『官報』第898号、明治19年6月30日。
- ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版。123-124、547頁。
- ^ a b 人事興信所編『人事興信録』第7版、1925年、は81頁。
- ^ 司法省保護課編『少年保護団体要覧』日本少年保護協会、1933年、19頁。
- ^ 『官報』第1034号「叙任」1886年12月9日。
- ^ 『官報』第2571号「叙任及辞令」1892年1月28日。
- ^ 『官報』第6247号「叙任及辞令」904年4月30日。
- ^ 『官報』第7084号「叙任及辞令」1907年2月13日。
- ^ 『官報』第8290号「叙任及辞令」1911年2月13日。
- ^ 『官報』第780号「敍任及辞令」1915年3月11日。
- ^ 『官報』第1397号「叙任及辞令」1917年3月31日。
- ^ 『官報』第2270号「叙任及辞令」1920年3月1日。
- ^ 『官報』第700号「叙任及辞令」1914年12月1日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。