新王朝の末期には、漢の復興を求める反乱が各所で起こった。橋扈もそれに加わった一人と考えられるが、具体的な活動は知られない。建武5年(29年)に盧芳が北辺の5郡を擁して皇帝を称したとき[2]、橋扈は雲中太守になったらしい。建武6年(30年)、盧芳のもとで郡の太守が相次いで殺された[3]。恐懼した橋扈(喬扈)と朔方太守田颯は、建武7年(31年)の冬に支配下の郡とともに光武帝に寝返った[4]。光武帝は両人をもとの職にとどめおいた[3]。その後の事は伝わらない。
- ^ 『後漢書』光武帝本紀に喬扈、王劉張李彭盧列伝に橋扈。
- ^ 『後漢書』王劉張李彭盧列伝第2。吉川忠夫訓注『後漢書』第3冊82頁。
- ^ a b 『後漢書』王劉張李彭盧列伝第2。吉川忠夫訓注『後漢書』第3冊83頁。
- ^ 『後漢書』光武帝本紀第1下、王劉張李彭盧列伝第2。吉川忠夫訓注『後漢書』第1冊66頁、第3冊83頁。
- 范曄『後漢書』。吉川忠夫訓注『後漢書』1 - 10と別冊、岩波書店、2001年から2007年。