榎本 重治(えのもと じゅうじ[1][2][注釈 1]、明治23年〈1890年〉1月16日[1][2] - 昭和54年〈1979年〉11月30日[2])は、大日本帝国海軍の海軍書記官(海軍高等文官)。

左:堀悌吉 海軍中佐(39歳)、右:榎本重治 海軍書記官(32歳)。大正11年(1922年)1月、カナダブリティッシュコロンビア州バンクーバー郊外 ポートヘネー(Port Haney。現:メイプルリッジ地区)にて撮影。

生涯

編集

海軍書記官(高等官一等、中将相当)

編集

東京府立第三中学校(現:東京都立両国高等学校・附属中学校[2]第二高等学校を経て[2][4]東京帝国大学法科大学英法科に進み、大正2年(1913年)11月に高等文官試験行政科に合格し[5]、大正3年(1914年)7月に東京帝大を卒業した[6]

鉄道院書記を経て、大正4年(1915年)10月、大日本帝国海軍の高等文官たる海軍書記官(当時の官名は海軍省参事官に任官し、高等官七等(奏任官中尉相当)に叙された[注釈 2]

※ 海軍における榎本の職務は、一貫して「海軍書記官として海軍省大臣官房に勤務し、法令条約を審査すること」であった(→海軍における職務と官歴)。

昭和13年(1938年)10月、高等官一等勅任官海軍高等文官の最高位[8]各省次官〈高等文官〉や陸海軍中将〈高等武官〉に相当)に叙された[1][9]

昭和20年(1945年)に帝国海軍が消滅するまでの30年間、海軍省大臣官房で国際法の専門家として重きをなした[1][8]海軍省庁舎(東京霞が関、現:中央合同庁舎第5号館)2階の大臣官房は、中庭に面して大臣室・書記官室(榎本の執務室)・次官室・副官室(大部屋)の4室が並び、廊下に出ずに相互に行き来できる造りであった[10]

堀悌吉海軍中将32期)に、その死去に至るまで、公私に渡って兄事していた[11]

山本五十六元帥海軍大将、兵32期)[8][12]古賀峯一(元帥海軍大将、兵34期[11]井上成美海軍大将兵37期[1]との信頼関係が厚かった。

海軍における職務と官歴

編集

海軍書記官の官等は「高等官七等(中尉相当)-高等官三等(大佐相当)」、海軍教授の官等は「高等官七等(中尉相当)-高等官二等(少将相当)」と、それぞれ定められていた[8]

さらに「高等官二等を最高官等とする勅任文官にして三年以上高等官二等に在職し功績顕著なる者は特に高等官一等に陞叙することを得」[8](原文は漢字カタカナ)と定められていた[8]

榎本は、海軍書記官の職務に一貫して就きながら、名目的に海軍教授に転じる(兼ねる)ことで高等官二等(少将相当)に叙されて勅任官に列し、さらに功績顕著なるを以て高等官一等(中将相当)に陞叙されたものである[8]

榎本自身が、自らの海軍における職務と官歴について、下記のように述べている。

私の海軍に於ける勤務は其の全期間を通じ本務は海軍省に於て法令条約を審査することにありました。最初は海軍省参事官であり後に官名改正により海軍書記官(各省官制通則により置かれた各省書記官と同一性質のもの)となりました。従って海軍省に於ては高等官三等(奏任)が最高の地位でありました。(追放令の追放条項に該当せず) — 榎本重治『覚書』(昭和24年3月)、括弧書きは出典のママ、[13]
海軍省参事官(海軍書記官)の専務者の定員は一名であり事務処理上手不足であったため海軍教授一名をして海軍省参事官(海軍書記官)を兼務せしめるのが慣例でありました。而して此の場合海軍教授は殆ど名義上のもので事実上は海軍省参事官(書記官)の職務を専行しました。私が海軍教授の職に就いたのも主として右の事情によるものでありました。(明治十九年勅令第六十八号陸軍及海軍文官教官制附則(大正五年勅令第二百二十七号を以て改正)中に「海軍大学校教官タル海軍教授ニシテ現二勅任官タル者ハ之ヲ第二条ノ規定ニ依ル員数ノ外トス」と規定し通常の教授と区別してあります) — 榎本重治『覚書』(昭和24年3月)、括弧書きは出典のママ、[13]
尚私が昭和六年から海軍教授として勅任の待遇を受くる〔ママ〕に至つたのは私が海軍省参事官(海軍書記官)として永年勤続(大正五年以降昭和二十年迄)したことに対する優遇の意味でありまして職務の内容には何等変化がありませんでした。 — 榎本重治『覚書』(昭和24年3月)、括弧書きは出典のママ、[13]
  • 大正4年(1915年)10月26日:鉄道院書記から、任 海軍教授海軍省参事官、叙 高等官七等[7]
  • 大正4年(1915年)10月26日:海軍教授として、賜 十級俸[14]
  • 大正6年(1917年)4月12日:海軍省参事官として、賜 九級俸[15]
  • 大正11年(1922年)9月30日:海軍省参事官として、賜 五級俸[16]
  • 大正13年(1924年)12月20日:海軍書記官として、賜 三級俸[17]
  • 昭和2年(1927年)3月31日:海軍書記官として、賜 二級俸[18]
  • 昭和6年(1931年)4月13日:海軍教授から、補 海軍大学校教官[19]
  • 昭和6年(1931年)9月25日:海軍書記官海軍教授から、補 海軍教授海軍書記官[20]
  • 昭和6年(1931年)12月9日:海軍書記官として、かねて命じられていた普通試験委員を免じられた[21]
  • 昭和9年(1934年)9月30日:海軍教授として、賜 一級俸[22]
  • 昭和13年(1938年)10月1日:海軍教授として、叙 高等官一等[9]
  • 昭和17年(1942年)10月13日:海軍教授として、叙 勲一等、授 瑞宝章[23]

なお、「榎本の帝国海軍における最終官職は、海軍教授である」旨が、官報(昭和23年6月7日付)に記載されている[24]

戦後

編集

海上自衛隊の国際法顧問を務める

編集

波多野澄雄防衛庁防衛研修所戦史室に昭和54年から昭和63年まで勤務)が、戦後の榎本について証言している。

「榎本資料」というのは、榎本重治さんですね。ワシントン会議の時から戦後の海上自衛隊の昭和30年代まで、ずっと海軍の国際法の顧問のような役割をなさっていた方です。 — 波多野澄雄[25]

87歳の榎本

編集

87歳の時(昭和52年〈1977年〉頃[注釈 3]。榎本は昭和54年〈1979年〉11月30日に満89歳で死去[2]東京都渋谷区神山町の自邸で、森史朗(戦史研究家)のインタビューに応じ、山本五十六堀悌吉との思い出を語った[12]。森は「榎本邸は、戦前に建てられた天井の高い洋館であった。榎本は、痩せぎすで背が高い矍鑠とした老人であり、頭脳は全く衰えていなかった」旨を述べている[12]

栄典

編集
  • 従七位(大正5年1月10日)[27]
  • 正七位(大正10年5月10日)[28]
  • 勲六等[29]
  • 正六位(大正13年5月15日)[30]
  • 勲五等瑞宝章(大正13年5月31日)[29]
  • 勲一等瑞宝章(昭和17年10月13日)[23]

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 昭和24年(1949年)3月に、榎本自身が作成した英文の「MEMORANDUM」(タイプ打ち)において、「Juji Enomoto」(Juji の u の上に、長音を示す横棒を付している)と記名している[3]
  2. ^ 辞令は「鉄道院書記 榎本重治、任 海軍教授 兼 海軍省参事官、叙 高等官七等。大正四年十月二十六日 内閣」[7] 。
  3. ^ 出典には「昭和五十年代のはじめ、筆者は山本五十六の海軍時代、心を許した数少ない友人の一人を訪ねたことがある。榎本重治、元海軍省書記官。当時八十七歳。」[26]とある。

出典

編集
  1. ^ a b c d e 井上成美伝記刊行会 1981, p. 432
  2. ^ a b c d e f 秦 2005, p. 189, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:榎本重治
  3. ^ 榎本 1954, コマ番号 11/95
  4. ^ 『官報(明治43年7月11日号)』大蔵省印刷局、1910年、237頁。 
  5. ^ 『官報(大正2年11月10日号)』大蔵省印刷局、1913年、204頁。 
  6. ^ 『官報(大正3年7月13日号)』大蔵省印刷局、1913年、333頁。 
  7. ^ a b 『官報(大正4年10月27日号)』大蔵省印刷局、1915年、204頁。 
  8. ^ a b c d e f g 雨倉 1997, pp. 122–128,
    「海軍高等文官」
    「中将待遇の文官アドミラル」
    「書記官厚遇」
    「勅任教授最後のご奉公」
  9. ^ a b 『官報(昭和13年10月3日号)』大蔵省印刷局、1938年、136頁。 
  10. ^ 福地誠夫『回想の海軍ひとすじ物語』光人社、1985年、104-105頁。 
  11. ^ a b 堀悌吉君追悼録編集会 1959, pp. 31–56, 堀中将の思出(榎本重治)
  12. ^ a b c 森史朗 2012a, pp. 46–62, 序章 その日の山本五十六:山本五十六の恋文:
    「2」
    「3」
  13. ^ a b c 榎本 1954, コマ番号 6/95-11/95
  14. ^ 『官報(大正4年10月28日号)』大蔵省印刷局、1915年、618頁。 
  15. ^ 『官報(大正6年4月13日号)』大蔵省印刷局、1917年、256頁。 
  16. ^ 『官報(大正11年10月2日号)』大蔵省印刷局、1922年、13頁。 
  17. ^ 『官報(大正13年12月23日号)』大蔵省印刷局、1924年、606頁。 
  18. ^ 『官報(昭和2年4月1日号)』大蔵省印刷局、1927年、53頁。 
  19. ^ 『官報(昭和6年4月15日号)』大蔵省印刷局、1931年、396頁。 
  20. ^ 『官報(昭和6年9月26日号)』大蔵省印刷局、1931年、646頁。 
  21. ^ 『官報(昭和6年12月11日号)』大蔵省印刷局、1931年、327頁。 
  22. ^ 『官報(昭和9年4月1日号)』大蔵省印刷局、1934年、68頁。 
  23. ^ a b 『官報(昭和17年10月14日号)』大蔵省印刷局、1942年、292頁。 
  24. ^ 『官報(昭和23年6月7日 号外)』大蔵省印刷局、1948年、4頁。 
  25. ^ 科学研究費成果報告書「日本近代史料情報機関設立の具体化に関する研究」平成 11・12 年度、波多野澄雄、8コマ目』(PDF)近代日本史料研究会http://kins.jp/pdf/20hatano.pdf 
  26. ^ 森史朗 2012a, p. 46
  27. ^ 『官報(大正5年1月11日号)』大蔵省印刷局、1916年、105頁。 
  28. ^ 『官報(大正10年5月11日号)』大蔵省印刷局、1921年、289頁。 
  29. ^ a b 『官報(大正13年6月3日号)』大蔵省印刷局、1924年、19頁。 
  30. ^ 『官報(大正13年6月4日号)』大蔵省印刷局、1924年、37頁。 

参考文献

編集