楼 伏連(ろう ふくれん、? - 449年)は、中国北魏軍人本貫代郡

経歴

編集

代々酋帥をつとめた家に生まれた。13歳で父の後を嗣ぎ、部落を率いた。道武帝に従って賀蘭部を討ち、また後燕の中山を攻撃した。太守となり、北魏にそむいた張翹を斬った。姚平を柴壁で討ち、功績により安邑侯の爵位を受け、晋兵将軍・并州刺史となった。明元帝のとき、楼伏連は西河胡の曹成ら70人あまりを誘って、の吐京護軍を襲撃し、ついで北魏にそむいた阿度支らを捕らえた。曹成らは将軍の位を受け、楼伏連は列侯の爵位を受けた。平城に召還されて内都大官となった。太武帝が即位すると、爵位は広陵公に進み、衛尉に任ぜられ、光禄勲に転じた。429年、太武帝が柔然を攻撃すると、楼伏連は平城にとどまった。435年、爵位は広陵王に進み、平南大将軍の位を加えられた。仮節・督河西諸軍・鎮西大将軍に任ぜられ、統万に駐屯した。449年、死去した。は恭といった。

子女

編集
  • 楼真(散騎常侍・尚書・安北将軍、湘東公)
  • 楼大抜(永平侯、中都大官)

伝記資料

編集
  • 魏書』巻三十 列伝第十八
  • 北史』巻二十 列伝第八