楢崎政友
楢崎 政友(ならさき まさとも)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。楢崎氏は備後国芦田郡久佐[1]の朝山二子城(楢崎城)を本拠とした国人で、毛利氏の家臣となる。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 通称:清吉→五郎左衛門 |
主君 | 毛利輝元 |
氏族 | 湯原姓楢崎氏 |
父母 | 父:楢崎景政 |
兄弟 | 政忠、政友 |
生涯
編集備後国芦田郡久佐[1]を本拠とした国人である楢崎豊景の次男・楢崎景政の次男として生まれ、毛利輝元に仕えた。
慶長2年(1597年)から始まる慶長の役において、政友は従兄弟の元兼(伯父・信景の嫡男)や元好(叔父・景好の長男)らと共に毛利秀元に従って朝鮮に渡った。元兼は嗣子のいないまま同年9月18日に朝鮮で病死し、従兄弟の元好が後を継いだ。また、政友の兄である政忠も朝鮮で戦死したため、政友が父・景政の後継となった。
政友は、慶長2年(1597年)12月22日から慶長3年(1598年)1月4日にかけて行われた第一次蔚山城の戦いにおいて功を挙げた。これにより、第一次蔚山城の戦いで功のあった毛利氏家臣を賞した、慶長3年(1598年)1月25日付の豊臣秀吉の朱印状に政友の名(楢崎清吉)も記されている[2]。