楡 (樅型駆逐艦)

大日本帝国海軍の二等駆逐艦

(にれ)は、大日本帝国海軍駆逐艦で、樅型駆逐艦の3番艦である。同名艦に橘型駆逐艦の「」があるため、こちらは「楡 (初代)」や「楡I」などと表記される。

艦歴
計画 1917年度[1]
起工 1919年9月5日[1]
進水 1919年12月12日[1]
就役 1920年3月31日[1]
除籍 1940年2月1日[1]
その後 1940年10月15日雑役船編入、練習船指定、航海学校附属[1]
1919年12月15日「第一泊浦」に改名[1]
1945年横須賀突撃隊の母艦に使用[1]
1948年8月15日解体終了[2]
性能諸元(計画)
排水量 基準:公表値 770トン
常備:850.00トン
全長 全長:290 ftin (88.39 m)
水線長:280 ft 0 in (85.34 m)
垂線間長:275 ft 0 in (83.82 m)
全幅 26 ft 0 in (7.92 m)または7.93m
吃水 8 ft 0 in (2.44 m)
深さ 16 ft 3 in (4.95 m)
推進 2軸 x 400rpm
直径 8 ft 6 in (2.59 m)、ピッチ3.378m
または直径2.565m、ピッチ3.353m
機関 主機:三菱パーソンズ式(高圧インパルス・低圧リアクション式一段減速)オールギアードタービン(高低圧) 2基[3]
出力:21,500shp
ボイラー:ロ号艦本式缶(重油専焼) 3基
速力 36ノット
燃料 重油250トン
航続距離 3,000カイリ / 14ノット
乗員 計画乗員 107名[4]
竣工時定員 110名[5]
兵装 45口径三年式12cm砲 単装3門
三年式機砲 2挺
53cm連装発射管 2基4門
魚雷8本
搭載艇 内火艇1隻、18ftカッター2隻、20ft通船1隻
備考 ※トンは英トン

艦歴

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1919年大正8年)9月5日、呉海軍工廠で起工[6]。同年12月22日午前10時進水[7]1920年(大正9年)3月31日竣工[8]

1932年昭和7年)、第一次上海事変において揚子江水域の作戦に参加した[1]

1940年(昭和15年)2月1日除籍。同年10月15日、雑役船に編入され海軍航海学校付属の練習船となる。1944年(昭和19年)12月15日、楡 (橘型駆逐艦)との区別のため、第一泊浦(だいいちとまりうら)に改称。1945年(昭和20年)、横須賀突撃隊の母艦に使用。1948年(昭和23年)8月15日に解体が終了した。

艦長

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※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長
  • 彭城昌国 少佐:1919年12月24日[9] - 1920年2月6日[10]
  • (兼)彭城昌国 少佐:1920年2月6日[10] -
駆逐艦長
  • 彭城昌国 少佐:1920年2月6日[10] - 1921年12月1日[11]
  • 岩村清一 少佐:1921年12月1日 - 1922年5月1日
  • 渋谷荘司 少佐:1922年5月1日[12] - 6月16日[13]
  • 山本弘毅 少佐:1922年6月16日 - 1922年12月1日
  • 木幡行 少佐:1922年12月1日 - 1923年5月1日
  • 志賀忠一 少佐:1923年5月1日[14] - 1924年5月1日[15]
  • 佐野哲 少佐:1924年5月1日[15] - 1925年4月15日[16]
  • 佐藤慶蔵 少佐:1925年9月5日[17] - 1926年12月1日[18]
  • 山本正夫 少佐:1926年12月1日[18] - 1928年12月10日[19]
  • 高次貫一 少佐:1928年12月10日 - 1930年12月1日
  • 荘司喜一郎 少佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
  • 藤田友造 少佐:1931年12月1日[20] - 1933年5月25日[21]
  • 井上良雄 大尉:1933年5月25日 - 1934年8月10日
  • 岡部三四二 大尉:1934年8月10日[22] - 1935年6月15日[23]
  • 田中正雄 少佐:1935年6月15日[23] - 1935年10月15日[24]
  • 有馬時吉 大尉:1935年10月15日[24] - 1936年12月1日[25]
  • 人見豊治 少佐:1936年12月1日[25] - 1937年12月1日[26]
  • 高須賀修 少佐:1937年12月1日[26] - 1939年9月26日[27]
  • (兼)江原晃 少佐:1939年9月26日[27] - 1939年11月1日[28]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 『日本海軍史』第7巻、300頁。
  2. ^ #日本海軍全艦艇史 資料編「主要艦艇艦歴表」12頁。
  3. ^ #帝国海軍機関史下巻pp.589-590(四八五-四八六頁)
  4. ^ #一般計画要領書p.16、士官6名、特務士官3名、下士官26名、兵72名
  5. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.601-602、『大正八年六月十日(内令一八二) 海軍定員令中左ノ通改正セラル 二三等驅逐艦定員表ヲ附表ノ通改ム | 第六十表 | 二三等驅逐艦定員表 |(詳細、備考略) |』將校、機關將校6人、特務士官准士官3人、下士26人、卒75人
  6. ^ #T9公文備考21艦船1/駆逐艦樅、榧、楡、栗製造一件(2)画像7『大正八年九月八日 呉鎮守府司令長官代理 海軍中将小栗考三郎 海軍大臣加藤友三郎殿 驅逐艦楡起工ノ件 驅逐艦楡九月五日起工致候艦船造修試験検査規則第六條ニ依リ右報告ス(終)』
  7. ^ #T9公文備考21艦船1/駆逐艦樅、榧、楡、栗製造一件(1)画像21『大正八年十二月二十二日(中略)驅逐艦楡本日午前十時無事進水セリ』
  8. ^ #T9公文備考21艦船1/駆逐艦樅、榧、楡、栗製造一件(2)画像34、大正9年3月31日電報訳『三月丗一日 呉鎮守府司令長官 楡竣工本日授受結了(了)』
  9. ^ 『官報』第2219号、大正8年12月25日。
  10. ^ a b c 『官報』第2252号、大正9年2月7日。
  11. ^ 『官報』第2801号、大正10年12月2日。
  12. ^ 『官報』第2922号、大正11年5月2日。
  13. ^ 『官報』第2962号、大正11年6月17日。
  14. ^ 『官報』第3224号、大正12年5月2日。
  15. ^ a b 『官報』第3505号、大正13年5月2日。
  16. ^ 『官報』第3792号、大正14年4月16日。
  17. ^ 『官報』第3913号、大正14年9月8日。
  18. ^ a b 『官報』第4283号、大正15年12月2日。
  19. ^ 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
  20. ^ 『官報』第1478号、昭和6年12月2日。
  21. ^ 『官報』第1918号、昭和8年5月26日。
  22. ^ 『官報』第2284号、昭和9年8月11日。
  23. ^ a b 『官報』第2535号、昭和10年6月17日。
  24. ^ a b 『官報』第2638号、昭和10年10月16日。
  25. ^ a b 『官報』第2976号、昭和11年12月2日。
  26. ^ a b 海軍辞令公報 号外 第99号 昭和12年12月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700 
  27. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第383号 昭和14年9月28日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076300 
  28. ^ 海軍辞令公報(部内限)第397号 昭和14年11月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076600 

参考文献

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  • 海軍省 編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊銘銘伝』光人社、1993年。
    • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
  • 『日本駆逐艦史』 世界の艦船 1992年7月号増刊 第453集(増刊第34集)、海人社、1992年。ISBN 4-905551-41-2 
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
  • 「二等駆逐艦及水雷艇 一般計画要領書 附現状調査」。 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『大正9年 公文備考 巻21 艦船1/駆逐艦樅、榧、楡、栗製造一件(1)』。Ref.C08021556400。 
    • 『大正9年 公文備考 巻21 艦船1/駆逐艦樅、榧、楡、栗製造一件(2)』。Ref.C08021556500。 

関連項目

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