森安秀光
森安 秀光(もりやす ひでみつ、1949年8月18日 - 1993年11月22日)は、将棋棋士。森安九段刺殺事件被害者。棋士番号99。岡山県笠岡市出身。藤内金吾門下。同じくプロ将棋棋士である森安正幸は実兄。
森安秀光 九段 | |
---|---|
名前 | 森安秀光 |
生年月日 | 1949年8月18日 |
没年月日 | 1993年11月22日(44歳没) |
プロ入り年月日 | 1968年4月1日(18歳) |
棋士番号 | 99 |
出身地 | 岡山県笠岡市 |
所属 | 日本将棋連盟(関西) |
師匠 | 藤内金吾八段 |
弟子 | 本間博・野田敬三 |
段位 | 九段 |
棋士DB | 森安秀光 |
戦績 | |
タイトル獲得合計 | 1期 |
一般棋戦優勝回数 | 10回 |
通算成績 | 712勝469敗(.603) |
竜王戦最高クラス | 1組(6期) |
順位戦最高クラス | A級(6期) |
2017年8月25日現在 |
経歴
編集小学6年生の時に兄・正幸とともに奨励会入会。同期入会には小阪昇がいる。
1968年、兄より一足早く四段昇段。順位戦は数年間C級で足踏みするものの、古豪新鋭戦や新人王戦で優勝するなど、関西のホープとして脚光を浴びる。初の棋戦優勝となった第16回古豪新鋭戦決勝は、兄・正幸との兄弟決戦となり、188手の長手数の末勝利している。
1978年、七段昇段とともに初の十段戦リーグ入り。その2年後には晴れてA級八段となり、一流棋士の仲間入りを果たす。
タイトル戦初登場は1981年の第7期棋王戦(五番勝負開幕は翌1982年)。当時の米長邦雄棋王に真っ向勝負を挑んだ五番勝負はどれも大熱戦となり、特に第一局の△9六飛を巡る攻防は、敗れはしたものの鮮烈な印象を残した。
1983年の第42期棋聖戦では開幕前、『全局振り飛車宣言』で中原誠棋聖と対峙した。出だし2連敗を喫したものの、その後3連勝で初のタイトルを奪取した。しかし、同年の第43期棋聖戦では、挑戦者・米長に対して1勝3敗で失冠した。
1984年の第42期名人戦では挑戦者となり、谷川浩司との「神戸組対決」と話題となったが、1勝4敗で敗れる。
翌1985年の第43期の名人戦挑戦者決定リーグ(順位戦A級)[注 1]最終局では、勝てばプレーオフ進出だったが、挑戦・降級ともに関係なかった米長邦雄に『米長哲学』を喰らい完敗。
1986年の第44期A級順位戦では順位2位で4勝を挙げるも、前年度の大山康晴休場に伴うA級順位戦参加定員増・降級者3名のあおりを受けA級から陥落[注 2]。翌1987年も連続の降級をしてB級2組まで低迷する。
その後は徐々に調子を取り戻して、B級2組からB級1組へ2回の昇級をし、A級復帰も視野に入っていたが、1993年11月23日、西宮市の自宅で刺殺された状態で発見された。44歳没。前日の22日に殺害されたものと見られ、その死は将棋界だけでなく、社会全体に大きな衝撃を与えた。同月26日、大林寺 (宝塚市)で葬儀が行われた[1]。
棋風
編集人物
編集- 入門当時から兄弟子の内藤國雄には随分と可愛がられ、結婚式の仲人も内藤が務めた。
- 河口俊彦[要文献特定詳細情報]によると、第43期名人戦挑戦者決定リーグ最終戦で米長に敗れた後、森安は「どうして米長さんは僕をいじめるんだ」と言ったという。米長は後に週刊現代で連載している自身のコラム[要文献特定詳細情報]でこの対局後のことに触れ、森安が5階から飛び降りようとしたり、酒で酔っ払って道路に飛び出し「俺を轢き殺せ!」と叫んで大騒動になったと証言している。
- 一方で米長は、この前年の第42期A級順位戦(当時の呼称は「名人挑戦者決定リーグ戦」)最終局においても挑戦・降級ともに関係のない状況だったが、勝てばプレーオフの可能性があった森雞二を降しており、この時は結果だけ見るとプレーオフなしで名人挑戦を決めた森安をアシストした格好になっている[4]。
弟子
編集棋士となった弟子
編集名前 | 四段昇段日 | 段位、主な活躍 |
---|---|---|
本間博 | 1985年6月10日 | 七段 |
野田敬三 | 1988年4月1日 | 七段 |
昇段履歴
編集通算成績
編集獲得タイトル
編集- 棋聖 1期(第42期-1983年前期)
- 登場回数6、獲得1
一般棋戦優勝
編集- 古豪新鋭戦 2回(第16回-1972年度・17回)
- 新人王戦 3回(第4回-1973年度・6回・8回)
- 名将戦 1回(第5回-1978年度)
- オールスター勝ち抜き戦5連勝以上 1回(第4回-1981年度)
- 日本将棋連盟杯争奪戦 1回(第15回-1982年度)
- 早指し将棋選手権 1回(第18回-1984年度)
- 日本シリーズ 1回(第6回-1985年度)
- 合計10回
将棋大賞・表彰など
編集- 第1回(1973年度) 新人賞
- 第5回(1977年度) 勝率第一位賞・技能賞
- 第9回(1981年度) 最多勝利賞・最多対局賞・殊勲賞
- 第11回(1983年度) 最多対局賞・殊勲賞
- 将棋栄誉賞(通算600勝達成) 1984年
在籍クラス
編集開始 年度 |
順位戦 出典[5]
|
竜王戦 出典[6]
| ||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
期 | 名人 | A級 | B級 | C級 | 期 | 竜王 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 5組 | 6組 | 決勝 T |
|||||
1組 | 2組 | 1組 | 2組 | |||||||||||||||
1968 | 23 | C213 | ||||||||||||||||
1969 | 24 | C205 | ||||||||||||||||
1970 | 25 | C113 | ||||||||||||||||
1971 | 26 | C103 | ||||||||||||||||
1972 | 27 | C103 | ||||||||||||||||
1973 | 28 | C104 | ||||||||||||||||
1974 | 29 | C103 | ||||||||||||||||
1975 | 30 | B216 | ||||||||||||||||
1976 | 主催者移行問題により中止 | |||||||||||||||||
1977 | 36 | B216 | ||||||||||||||||
1978 | 37 | B111 | ||||||||||||||||
1979 | 38 | B105 | ||||||||||||||||
1980 | 39 | A 10 | ||||||||||||||||
1981 | 40 | A 08 | ||||||||||||||||
1982 | 41 | A 02 | ||||||||||||||||
1983 | 42 | A08 | ||||||||||||||||
1984 | 43 | A 01 | ||||||||||||||||
1985 | 44 | A 02 | ||||||||||||||||
1986 | 45 | B101 | ||||||||||||||||
1987 | 46 | B202 | 1 | 2組 | -- | |||||||||||||
1988 | 47 | B204 | 2 | 1組 | -- | |||||||||||||
1989 | 48 | B113 | 3 | 1組 | -- | |||||||||||||
1990 | 49 | B201 | 4 | 1組 | -- | |||||||||||||
1991 | 50 | B112 | 5 | 1組 | -- | |||||||||||||
1992 | 51 | B104 | 6 | 1組 | -- | |||||||||||||
1993 | 52 | B106 | 7 | 1組 | -- | |||||||||||||
第52期 7回戦の実施後に死去 | ||||||||||||||||||
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。 順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 ) 順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。 竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。 |
主な著書
編集- 森安流 力戦四間飛車(1986年7月、筑摩書房、ISBN 4-480-67008-4)
- だるま流森安の振り飛車のススメ(1986年7月、毎日コミュニケーションズ、ISBN 4-89563-506-6)
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 期待、重圧だったか長男KYODO NEWS IMAGELINK 1993年12月08日
- ^ a b “森安秀光八段(当時)「明日の作戦ですが、▲7六歩なら△3四歩と角道を突きます」”. 将棋ペンクラブログ. 2020年5月31日閲覧。
- ^ 『スター棋士23人集』(木本書店)P.23
- ^ “両対局者が朝食を食べながら指されたタイトル戦”. 将棋ペンクラブログ. 2020年6月5日閲覧。 “本文中にある「米長さんのおかげで名人挑戦者になれました」は、このことを指している。”
- ^ 「名人戦・順位戦」『日本将棋連盟』。
- ^ 「竜王戦」『日本将棋連盟』。