梁松
梁 松(りょう しょう、? - 61年?)は、後漢時代初期の政治家。字は伯孫。父は梁統。妻は光武帝の娘の舞陰長公主劉義王。弟は梁竦。子は梁扈。涼州安定郡烏氏県の人。
事績
編集姓名 | 梁松 |
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時代 | 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 61年(永平4年)? |
字・別号 | 伯孫(字) |
本貫・出身地等 | 涼州安定郡烏氏県 |
職官 | 郎〔後漢〕→虎賁中郎将〔後漢〕 →太僕〔後漢〕 |
爵位・号等 | 陵郷侯〔後漢〕 |
陣営・所属等 | 光武帝→明帝 |
家族・一族 | 父:梁統 義理の父:光武帝 妻:劉義王(舞陰長公主) |
若くして郎となり、舞陰長公主を娶ると、虎賁中郎将となった。梁松は経書に広く通じ、故事に明るく、儒家たちと明堂(天子が政教を行い、諸侯を朝見した殿堂)、辟雍(天子が建てた大学)、郊祀、封禅礼儀の手はずについて習得し、常に議論したため、光武帝からの寵愛は比肩する者がなかった。
建武25年(49年)、伏波将軍馬援が武陵五渓蛮の討伐に苦戦すると、光武帝は梁松を派遣して馬援を叱責させた(馬援は、その前に軍中で病没している)。ところが、梁松はかねてから馬援に恨みを抱いていたため、これを機に馬援について讒言する。光武帝は激怒して、馬援の新息侯の印綬を没収してしまった。
光武帝崩御に際して梁松は、明帝の政を輔佐するように、との遺詔を受けている。永平元年(58年)、太僕に遷った。しかし梁松は、しばしば郡県から私事を頼み込まれており、永平2年(59年)にそれが発覚して、免官となった。梁松はこれに怨恨を抱き、永平4年(61年)冬、匿名の書により誹謗を働いたとして、獄に下されて死んだ。
参考文献
編集- 『後漢書』列伝24付・梁松伝 列伝9耿弇伝 本紀10下皇后紀下