桜町天皇
桜町天皇(さくらまちてんのう、1720年2月8日〈享保5年1月1日〉 - 1750年5月28日〈寛延3年4月23日〉[1])は、日本の第115代天皇[注釈 1](在位: 1735年4月13日〈享保20年3月21日〉- 1747年6月9日〈延享4年5月2日〉)。諱は昭仁(てるひと)。幼名は若宮。
桜町天皇 | |
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桜町天皇像(泉涌寺蔵) | |
即位礼 | 1735年12月16日(享保20年11月3日) |
大嘗祭 | 1738年12月29日(元文3年11月19日) |
元号 |
享保 元文 寛保 延享 |
時代 | 江戸時代 |
征夷大将軍 |
徳川吉宗 徳川家重 |
先代 | 中御門天皇 |
次代 | 桃園天皇 |
誕生 | 1720年2月8日(享保5年1月1日) |
崩御 | 1750年5月28日(寛延3年4月23日) |
陵所 | 月輪陵 |
追号 |
桜町院 (桜町天皇) |
諱 | 昭仁 |
称号 | 若宮 |
元服 | 1733年3月16日(享保18年2月1日) |
父親 | 中御門天皇 |
母親 | 近衛尚子 |
女御 | 二条舎子 |
子女 |
盛子内親王 智子内親王(後桜町天皇) 遐仁親王(桃園天皇) |
皇居 | 平安宮(京都御所) |
親署 |
略歴
編集幼名は若宮。享保5年(1720年)の元日に誕生したが、母の近衛尚子は若宮誕生から20日目に急逝した。しかし、同年10月には儲君に定められ、11月には親王宣下が行われている。生母が不在であったために曾祖母の六条局(中御門天皇の外祖父の櫛笥隆賀の妻の西洞院時子)や外祖父の近衛家熙が養育の中心となった[4]。
享保13年(1728年)6月に立太子、享保18年(1733年)2月に元服、享保20年(1735年)に父帝の譲位により践祚。即位直後は朝遅く起きて、昼近くに朝食を召し、夜遅くまで起き、学問よりも蹴鞠を好むと、右大臣の一条兼香を嘆かせている(『兼香公記』享保20年4月22日条)[5]。だが、後に関白となった一条兼香の補佐と江戸幕府の将軍徳川吉宗の助力を得て朝廷の儀式の復古に力を入れ、大嘗祭の再復活や新嘗祭、奉幣使などの他の儀礼の復活にも力を注ぎ、朝儀の復興を通して天皇の権威向上に努めていたことが窺える。
また、東山・中御門両天皇や自身の養育に外戚である松木家や櫛笥家が深く関与して政治的発言力を持ち、また女官に任命されていない天皇の外祖母(東山天皇外祖母の東二条局や中御門天皇外祖母の六条局)が内裏に出入りをして女官たちを統括していた問題点[6][7][8]を解消するために、皇嗣の「実母」は天皇の正配が務めてその養育も正配が行い、「生母」や外戚の立場を認めないとした[9][10]。合わせて、女官に対する女叙位の復活など女官制度の立て直しを行った[11]。
延享4年(1747年)桃園天皇に譲位して桜町殿で院政を開始するが、寛延3年(1750年)に脚気衝心により31歳で崩御。なお、徳富蘇峰の『近世日本国民史』以来、天皇が幕府の圧力によって譲位したとする説があるが、実際には譲位後においても積極的に政治や学問の振興策を主導しており、むしろ幕府からの干渉を避けるために院政による政治運営を行う狙いがあったと考えられている。実際に天皇は延享3年(1746年)より度々譲位の意向を示しており、議奏である柳原光綱・広橋兼胤の諫言や院政に反対する江戸幕府の意向もあって押し止められていた[12]が、最終的には譲位を強行したとされている[13]。桜町上皇は表向きには摂政一条道香(一条兼香の子)を立てつつ、兼香や武家伝奏らの補佐を受ける形で院政を行っている[14]。ただ、院政を充実させるには残された3年という期間は余りにも短すぎるものであった。
神沢貞幹の『翁草』によると生まれが元旦でそのとき火事があり且つ実績も立派という共通点から聖徳太子の再来といわれ、歴史家としても知られた公家の柳原紀光も「延喜・天暦の治以来の聖代である」と評したという。
烏丸光栄に古今伝授を受けるなど歌道に優れ、御製は『桜町院御集』や『桜町院坊中御会和歌』としてまとめられている。また曽祖父・霊元天皇の御製を分類して『桃蕊類題(とうずいるいだい)』を残している。一乗院宮尊賞親王から入木道を伝授され、書にも優れた。
系譜
編集桜町天皇の系譜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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系図
編集114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
115 桜町天皇 | 典仁親王 (慶光天皇) | 倫子女王 | 鷹司輔平 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
117 後桜町天皇 | 116 桃園天皇 | 美仁親王 | 119 光格天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
118 後桃園天皇 | 120 仁孝天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
桂宮淑子内親王 | 121 孝明天皇 | 和宮親子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃・皇子女
編集在位中の元号
編集諡号・追号・異名
編集仙洞御所の宮名である桜町殿により桜町院と追号された。
陵・霊廟
編集陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。
注釈
編集脚注
編集- ^ 『桜町天皇』 - コトバンク
- ^ 藤田覚『光格天皇』p.52。
- ^ 「書陵部所蔵目録・画像公開システム,ギャラリーバックナンバー,『光格天皇宸翰南無阿弥陀仏』」
- ^ 石田俊「近世中期の朝廷運営と外戚」『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年 ISBN 978-4-642-04344-1 P88-91.
- ^ 田中暁龍「禁中并公家中諸法度第一条について」『近世朝廷の法制と秩序』山川出版社、2012年、36-41頁。ISBN 978-4-634-52015-8。
- ^ 石田俊「霊元天皇の奥と東福門院」『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年 ISBN 978-4-642-04344-1 P40-41.(初出:『史林』94-3、2011年)
- ^ 石田俊「近世中期の朝廷運営と外戚」『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年 ISBN 978-4-642-04344-1 P81.(原論文は朝幕研究会編『近世の天皇・朝廷研究 第三回大会成果報告書』2010年)
- ^ 石田俊「近世朝廷における意思決定の構造と展開」『近世公武の奥向構造』(吉川弘文館、2021年) ISBN 978-4-642-04344-1 P128-140.(初出は『日本史研究』618、2014年)
- ^ 石田俊「近世中期の朝廷運営と外戚」『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年 ISBN 978-4-642-04344-1 P96-97.(原論文は朝幕研究会編『近世の天皇・朝廷研究 第三回大会成果報告書』2010年)
- ^ 石田俊「近世朝廷における意思決定の構造と展開」『近世公武の奥向構造』(吉川弘文館、2021年) ISBN 978-4-642-04344-1 P141-142.(初出は『日本史研究』618、2014年)
- ^ 石田俊「近世朝廷における意思決定の構造と展開」『近世公武の奥向構造』(吉川弘文館、2021年) ISBN 978-4-642-04344-1 P142-145.(初出は『日本史研究』618、2014年)
- ^ 『光綱卿記』「別記・関東御往交事」延享3年4月23日条
- ^ 村 2013, pp. 168–170.
- ^ 村 2013, pp. 171–191.
参考文献
編集- 宮内省図書寮 編『桜町天皇実録』 全2巻、ゆまに書房、2006年。
- 村和明「十八世紀の朝廷運営と上皇―桜町上皇の時代を例に―」『東京大学日本史学研究室紀要別冊 藤田先生退職記念 近世政治史論叢』2010年3月、145-160頁。
- 改題所収 村和明「桜町上皇と朝廷運営」『近世の朝廷制度と朝幕関係』東京大学出版会、2013年。ISBN 978-4-13-026233-0。
著書
編集- 『桜町天皇御集I』桜耶書院、2016年8月。ISBN 978-4907529239。
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