栗本丹洲
栗本 丹洲(くりもと たんしゅう)は、江戸時代後期の医師、本草学者。江戸幕府奥医師4代目栗本瑞見。製薬所掛、医学館講書。実父田村藍水の影響で本草学に通じ、数多くの図譜を残した。子孫に栗本鋤雲がいる。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 宝暦6年7月27日(1756年8月22日) |
死没 | 天保5年3月25日(1834年5月3日) |
改名 | 田村新次郎、栗本元東、元格、瑞見、瑞仙院 |
別名 | 諱:昌臧(まさよし)[1] |
戒名 | 瑞仙院楽我居士 |
墓所 | 四谷日宗寺 |
官位 | 法眼、法印 |
幕府 | 江戸幕府奥医師 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
氏族 | 坂本姓田村氏、源姓栗本氏 |
父母 | 父:田村藍水、養父:栗本昌友 |
兄弟 | 田村西湖、栗本単洲 |
妻 | 栗本昌友娘 |
子 | 栗本昌大、大淵友玄 |
生涯
編集宝暦6年(1756年)7月27日、江戸神田紺屋町に本草学者田村藍水の次男として生まれた[2]。幼名は新次郎[2]。安永7年(1778年)7月14日または15日、奥医師栗本昌友(3代目栗本瑞見)の婿養子となり、元格と称した[2]。
天明元年(1781年)8月6日将軍徳川家治に御目見し、天明5年(1785年)12月15日奥医師見習となり、西城広敷で療治を行った[1]。寛政元年(1789年)6月17日奥医師に進み、家治側室蓮光院を担当し、12月16日法眼に叙された[1]。寛政3年(1791年)3月8日蓮光院が死去すると、4月27日寄合医師に降格したが、6月6日奥医師に復帰、14日家治養女種姫を担当した[1]。寛政4年(1792年)4月19日奥医師[1]、10月1日製薬所掛[2]。
寛政5年(1793年)12月29日父昌友の家督を継ぎ、瑞見の号を襲名した[2]。寛政6年(1794年)4月オランダ商館長ヘイスベルト・ヘンミーが医師ベルンハルト・ケルレルを伴い江戸参府をした際、対談した[3]。寛政6年(1794年)10月6日医学館講書となった[2]。この頃より本草学に本格的に取り組み、虫類を採集して実写、分類を続け、文化8年(1811年)『千虫譜』を完成させた。
天保元年(1830年)1月16日、幕医最高位の法印に叙せられ[4]、瑞仙院と号した[2]。
文政6年3月19日(1823年4月26日)、江戸滞在中のシーボルトを訪れ、『蟹蝦類写真』『魚類写真』を贈ったが、これらは西欧に持ち帰られ、ウィレム・デ・ハーンは『日本動物誌』甲殻類編に記載した内31種を『蟹蝦類写真』に拠っている[5]。
天保4年(1833年)6月5日高齢のため辞職、天保5年(1834年)3月25日病死し、菩提寺日宗寺に葬られた[2]。墓石には「故法印薬品鑑定瑞仙院楽我居士」とある[6]。
『千虫譜』
編集『千虫譜』は、文化8(1811)年に完成したとされる日本初の虫類図譜である。上下2巻からなり紙数は240枚。虫類だけではなく哺乳類や爬虫類といった他分類の生物も記載されている[7]。原本は失われているが、30点を超える転写本が残っている[8]。
成立年代
編集文化8年の序があるためにこの年に完成したと位置づけられることが多いが、この後も丹洲が死去する前年に当たる1833年に至るまで内容が継ぎ足されていることから、厳密に言うと文化8年は完成年とは言えない[8][9]。
内容の特徴
編集魚介類の図などは、丹洲のオリジナルではなく他図譜からの転写が多い[10]。各転写本においては、図や説明文に重複が多い。理由としては、文化8年以降に継ぎ足されてきた影響[9]や、転写した時期による点数の異同、転写者の興味関心による掲載内容の取捨選択、本書からの転写に自身の写生や他図譜からの転写を加えたなどが考えられている[8]。
転写本
編集本書の転写本には、転写者の意向や後世の転写、転写部分のタイトルが失われているなどの理由から、「千虫譜」ではない別の書名で流布している場合が多い。それはたとえば、『栗氏虫譜』『丹洲虫譜』のような丹洲に因む書名が付けられているものから、『虫類図譜』『昆虫魚介図』など、一見すると丹洲とは無関係であると思われてしまうものまで実に様々である[8][11]。
著作
編集本草
植物
動物
- 『千虫譜』[16]
- 『麞説』[12]
- 『翡鰮二考』[17]
- 『竜絵巻物』[12]
- 『巧婦鳥巣説』[12]
- 『水虎考』[12]
- 『列木蝋考』(『あやかし考』)[12]
- 『信天縁海鵞図説』[18]
- 『鳥譜』[12]
- 『栗氏禽譜』[19]
- 『百鳥譜』[20]
- 『鳥獣魚写生図』[21]
- 『虫豸図譜』[12]
- 『栗氏虫譜』[22]
- 『丹洲虫譜』[12]
- 『毒蛇法部図説』(『ハブ拙考』)[23]
- 『異鳥図譜』[24]
- 『水虎雷獣』[25]
- 『海獣』[25]
- 『鳥の和歌』[25]
- 『鶏属集説』[25]
- 『松虫鈴虫考』[25]
- 『水虎奇譚』[26]
魚介
- 『玉余魚図彙』[27]
- 『鰣魚志』[28]
- 『翻車考』[29]
- 『皇和魚譜』[30][31]
- 『魚譜』[32]
- 『栗氏魚譜』[33]
- 『丹洲魚譜』[12]
- 『鯨譜』[12]
- 『異魚図賛』[34]
- 『異魚図纂・勢海百鱗』[35]
- 『魚貝譜』[26]
- 『蛸海月烏賊類図巻』[36]
- 『魚鳥獣草木図譜』[12]
- 『天産図譜』[26]
- 『海産生物譜』[26]
- 『紅鯊魚図譜』[24]
- 『貝譜』[25]
- 『鯛譜』[25]
- 『介譜』[25]
- 『印魚譜』[25]
その他
家族
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m 「寛政重修諸家譜」
- ^ a b c d e f g h i j 藤浪 1935, pp. 2–3.
- ^ 福島 1978, p. 12.
- ^ 磯野 1994.
- ^ 福島 1978, p. 14.
- ^ a b c 藤浪 1935, p. 6.
- ^ 名和靖「千蟲譜記載の動物」『動物学雑誌』第6巻第66号、東京動物學會、1894年4月、144頁、CRID 1542261570228309120、NDLJP:10824680。
- ^ a b c d 磯野直秀 1998, p. 3
- ^ a b 中村禎里 1994, p. 85
- ^ 磯野直秀 1998, p. 6.
- ^ 2023年6月20日から8月20日まで、東京国立博物館にて「虫譜づくりの舞台裏ー栗本丹洲著『千虫譜』とその展開」と題した特集が組まれ、本館に所蔵される『千虫譜』および転写本が展示された。https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2604(2023年8月17日閲覧)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 福島 1978, pp. 9–10.
- ^ NDLJP:2540508
- ^ NDLJP:2533718
- ^ 洋名入草木図 - 東京国立博物館画像検索
- ^ NDLJP:2609476
- ^ NDLJP:2538138/23
- ^ NDLJP:2537148
- ^ NDLJP:2537264
- ^ NDLJP:1286971
- ^ NDLJP:1288508
- ^ NDLJP:2606910
- ^ NDLJP:2538138/19
- ^ a b 藤浪 1935, p. 4.
- ^ a b c d e f g h i j 藤浪 1935, p. 5.
- ^ a b c d 西尾市岩瀬文庫古典籍書誌データベース
- ^ NDLJP:2540819
- ^ NDLJP:2540730
- ^ NDLJP:2536150
- ^ 『皇和魚譜』 - 水産総合研究センター図書資料デジタルアーカイブ
- ^ 皇和魚譜 - Google ブックス
- ^ NDLJP:1287077
- ^ NDLJP:1287062
- ^ NDLJP:1286744
- ^ NDLJP:1287073
- ^ NDLJP:1286924
- ^ 藤浪 1935, p. 8.
参考文献
編集- 磯野直秀「日本博物学史覚え書(Ⅱ)」『慶応義塾大学日吉紀要 自然科学』第16号、1994年。
- 磯野直秀「日本博物誌雑話(3)」『タクサ:日本動物分類学会誌』第5巻、日本動物分類学会、1998年、3-7頁、CRID 1390001204713351296、doi:10.19004/taxa.5.0_3、ISSN 13422367。
- 中村禎里「栗本丹州『千蟲譜』の原初型について」『科学史研究』第33巻第190号、日本科学史学会、1994年、85-87頁、CRID 1390005966211707136、doi:10.34336/jhsj.33.190_85、ISSN 00227692。
- 福島好和「栗本丹洲と魚譜(一) : 丹洲の生涯とその研究」『人文論究』第28巻第3号、西宮 : 関西学院大学人文学会、1978年12月、1-23頁、CRID 1050001202536648192、hdl:10236/5216、ISSN 02866773。
- 藤浪剛一「栗本瑞仙院の事跡とその墓所」『中外医事新報』第1225号、1935年11月28日。
- 『寛政重修諸家譜』第1292巻 NDLJP:2577583/105