柳沢 光治(柳澤、やなぎさわ みつはる、1891年明治24年)6月22日[1] - 1957年昭和32年)11月7日[1][2])は、大正から昭和期の技術者政治家華族貴族院子爵議員

柳沢光治

経歴

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黒川藩主、子爵柳沢光邦の三男として生まれる[1][3][4]。父の死去に伴い、1923年(大正12年)12月20日、子爵を襲爵した[1][5]

1915年(大正4年)7月、東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業[2][4][6]。同年、日本醋酸製造技手となる[2][4]。以後、同技術部主任、東京府工業技師、同産業技師、同商工技師、府立東京商工奨励館委員、同化学部主任などを務めた[2][4]

1939年(昭和14年)11月4日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[7][8]研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]

親族

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  • 母 飛佐子(ひさこ、那須与市(那須資興)長女)[1][3]
  • 妻 エイ(中山幸三郎四女)[1]
  • 長女 米子(後藤啓一夫人)
  • 養子 幸輝(エイ養子、後藤啓一三男)[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成 下巻』758頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』58-59頁。
  3. ^ a b 『華族畫報 上』488頁。
  4. ^ a b c d 『人事興信録 第14版 下』ヤ42頁。
  5. ^ 『官報』第3401号、大正12年12月22日。
  6. ^ 『東京帝国大学一覧 從大正4年 至大正5年』東京帝国大学、1916年、学士及卒業生姓名191頁。
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、46頁。
  8. ^ 『官報』第3852号、昭和14年11月7日。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
  • 杉謙二編『華族畫報 上』吉川弘文館、2011年(華族画報社大正2年刊の複製)。


日本の爵位
先代
柳沢光邦
子爵
黒川柳沢家第2代
1923年 - 1947年
次代
華族制度廃止