林癸未夫
日本の経済学者
林 癸未夫(はやし きみお、1883年9月17日 - 1947年10月26日)は、経済学者であり、教育者でもある。早稲田大学法学部卒業後、古河鉱業に入社し、欧米を視察。帰国後、早稲田大学政治経済学部教授、早稲田大学総長代理を勤めた。岡山県高梁市出身[1]。
はやしきみお 林癸未夫 | |
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生誕 |
旧姓 藤井癸未夫 1883年9月17日 日本・岡山県高梁市 |
死没 | 1947年10月26日(64歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 早稲田大学法学部 |
職業 | 経済学者・教育者 |
親 |
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経歴
編集生い立ち
編集明治16年(1883年)、岡山県上房郡高梁町八幡(現・高梁市)にある藤井種次郎の二男として生れ、母の実家・林家を継ぐ。地元の旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)から[2]大阪の北野中学校(現・大阪府立北野高校)に転校[2]、早稲田専門学校英語専修科を経て、明治38年(1905年)早稲田大学法学部を卒業、古河鉱業に入社、労働問題の調査研究にあたる[3]。
古河鉱業入社後
編集入社後の大正9年(1920年)欧米を視察、翌年帰国し、母校の早稲田大学政治経済学部で、社会政策や工業経済の講義に当たる。同12年(1923年)教授に就任。同大図書館長、政治経済学部長、常務理事、昭和21年(1946年)早稲田大学総長代理、日本図書協会理事長を歴任した[4]。
その間、東京女子大学、津田英語塾に出講、日本の社会政策学会に多くの先駆的業績を残し、国家社会主義の理論体系を樹立することに努めた。また「中央公論」などのジャーナリズムでも活躍、社会政策学界に貢献。著書に「社会政策新原理」「国際労働運動史」「工業経済政策」「社会問題各論」「国家社会主義原理」「国家社会主義論集」など。随筆「天邪鬼」がある[5]。
著書
編集- 強者にも弱者にも(警醒社、1922年)
- 社会と宗教と芸術(文省社、1925年)
- 社会政策新原理(早稲田大学出版部、1926年)
- 国家社会主義原理(章華社、1932年)
- 西洋思想の日本化(章華社、1932年)
- 社会政策概論(章華社、1934年)
脚注
編集- ^ “著者カード 林癸未夫”. main-kozats.ssl-lolipop.jp. 2024年11月16日閲覧。
- ^ a b 岡山県行幸記念誌 p.156 林癸未夫 高梁中から北野中へ転校
- ^ “高梁人物「は」”. takahashi.jyoukamachi.com. 2024年11月16日閲覧。
- ^ 『「20世紀日本人名事典」20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。
- ^ 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社。
学職 | ||
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先代 中野登美雄 |
早稲田大学興亜人文科学研究所長 1946年 |
次代 島田孝一 |
先代 中野登美雄 |
早稲田大学政治経済学部長 1944年 - 1945年 |
次代 久保田明光 |
その他の役職 | ||
先代 安部磯雄 |
早稲田大学図書館長 1923年 - 1947年 |
次代 岡村千曳 |
先代 松本喜一 |
日本図書館協会理事長 1930年 - 1931年 |
次代 松本喜一 |