松村任三
日本の植物学者 (1856-1928)
松村 任三(まつむら じんぞう、1856年2月14日〔安政3年1月9日〕- 1928年5月4日)は、日本の植物学者。
松村 任三 | |
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生誕 |
1856年2月14日(安政3年1月9日) 日本 |
死没 | 1928年5月4日(72歳没) |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 植物学 |
出身校 | 東京大学 |
主な業績 | 大森貝塚の発掘 |
影響を 受けた人物 | エドワード・S・モース |
影響を 与えた人物 | 牧野富太郎、工藤祐舜他 |
命名者名略表記 (植物学) | Matsum. |
プロジェクト:人物伝 |
人物
編集東京帝国大学理学部植物学教室教授、附属小石川植物園の初代園長。多くの植物標本を採取しソメイヨシノやワサビなど150種以上の植物に学名を付け、それまでの本草学と近代の植物学の橋渡しをした。また、植物の分類のための植物解剖(形態)学という新しい学問を広めた。門下生に牧野富太郎がいる。だが次第に牧野を憎むようになり、講師であった牧野の免職をたびたび画策した[1]。位階勲等は正三位勲一等。現在の茨城県高萩市出身。同市にあるかやぶきの生家は2012年12月10日の火災によって全焼した[2]。
略歴
編集- 1856年、常陸国多賀郡下手綱村に、常陸松岡藩の家老の長男として生まれる。
- 1861年、数え6歳にして、水戸藩主の前で四書五経の素読を行う。
- 1870年、藩の貢進生に選ばれ、大学南校(後の東京開成学校、東京大学の前身)に入学。
- 1876年、東京開成学校退学。
- 1877年、東京大学小石川植物園に奉職し、矢田部良吉教授の助手となる。エドワード・S・モースの大森貝塚発掘に参加する。
- 1882年、東京植物学会(後の日本植物学会)の設立に尽力。
- 1883年、東京大学生物学科の助教授に就任。
- 1884年、『日本植物名彙』を著す。
- 1886年、ドイツ留学。ヴュルツブルク大学のユリウス・フォン・ザックス教授、ハイデルベルク大学のエルンスト・プフィッツァー(Ernst Pfitzer)教授に師事し、植物分類学を学ぶ。1888年、帰国。
- 1890年、帝国大学理学部植物学科の教授に就任。
- 1891年、理学博士の学位取得。矢田部良吉が辞任したのを受け、帝国大学植物園の管理を命ぜられる。
- 1897年、東京帝国大学理科大学附属植物園に園長職が設けられ初代園長に就任。
- 1906年、欧米視察。
- 1912年、1904年から出版された『帝国植物名鑑』が完成する。
- 1922年、東京帝国大学退官。
- 1925年、正三位勲一等に叙せられる。
- 1928年、脳溢血のため[3]東京の自宅にて死去。
家族
編集栄典・授章・授賞
編集- 位階
- 1898年(明治31年)12月10日 - 正五位[7]
- 1904年(明治37年)2月10日 - 従四位[8]
- 1909年(明治42年)3月20日 - 正四位[9]
- 1914年(大正3年)4月10日 - 従三位[10]
- 勲章等
主な著作
編集松村の著作の多くは植物学に関するものであるが、幼少から四書五経をそらんじたといわれるなど国文学・言語学の素養もあり、晩年にはその方面の著作も残している。
発行年は複数巻ある場合は最初の巻が発行された年。
脚注
編集- ^ 大原富枝『草を褥に 小説・牧野富太郎』小学館、渋谷章『牧野富太郎』平凡社ライブラリー。
- ^ “わさび学名名付け親 松村任三の生家全焼”. NHKニュース. (2012年12月10日) 2012年12月10日閲覧。
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)26頁
- ^ 「この本おもしろかったよ!」『ある老学徒の手記』 朔北社出版部
- ^ 松村瞭コトバンク
- ^ 松村任三『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 『官報』第4636号「叙任及辞令」1898年12月12日。
- ^ 『官報』第6181号「叙任及辞令」1904年2月12日。
- ^ 『官報』第7718号「叙任及辞令」1909年3月22日。
- ^ 『官報』第508号「叙任及辞令」1914年4月11日。
- ^ 『官報』第6148号「叙任及辞令」1903年12月28日。
- ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2522号「叙任及辞令」1920年12月27日。