松平重昌

江戸時代中期の大名。福井藩第11代藩主

松平 重昌(まつだいら しげまさ)は、江戸時代中期の大名越前国福井藩11代藩主[注 2]

 
松平 重昌
時代 江戸時代中期
生誕 寛保3年(1743年8月22日または8月23日
死没 宝暦8年3月18日(1758年4月25日)
改名 小五郎、於義丸、松平重昌
戒名 源隆院
墓所 東京都品川区南品川の海晏寺
官位 従四位上左近衛権少将越前守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重
越前国福井藩藩主
氏族 一橋徳川家福井松平家
父母 父:徳川宗尹、母:一条顕子
養父:松平宗矩
兄弟 松平重昌保姫松平重富徳川治済黒田治之ほか
(出典:「一橋徳川系図」[1]
婚約者:品姫(徳川宗勝七女)
特記
事項
弟・松平重富が後を継いだ[注 1]
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生涯

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寛保3年(1743年)8月22日、一橋徳川家の当主・徳川宗尹の長男として江戸で誕生した(「一橋徳川家記」)[2]福井松平家の家記では23日としている)[3]。母は一条兼香の娘・一条顕子[2]。同年9月1日、8代将軍徳川吉宗により、父・宗尹と同じ幼名「小五郎」を授けられる[4]

延享4年(1747年6月12日、幕命により、福井藩藩主・松平宗矩の養子とされ、於義丸と改名する[2][3](於義丸は、藩祖・結城秀康の幼名である[5])。

寛延2年(1749年10月21日に宗矩が没したため、同年12月7日に襲封した[2][6]

宝暦5年(1755年6月13日元服し、家重から偏諱を授けられ重昌[注 3]と名乗り、従四位上左近衛権少将越前守に叙任される[2][7]

宝暦8年(1758年)3月18日、16歳で死去した[2][7]法名は源隆院[2]

尾張藩藩主・徳川宗勝の七女・品姫(瓊樹院)と縁組していたが、婚姻前に重昌が死去した[8]。品姫は、のち松平頼前に嫁いだ[9]

死後

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同年(宝暦8年)3月21日、幕命により、異母弟・重富が後嗣となった[2]

藩政

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若年で相続し、早世したため、治世時の業績は直裁ではなく、おおよそ家臣らの手によるものである。相続前に幕府からの預所が全て幕府直轄となった。これは藩としては減収となる。さらに地域を天候不順が襲い、領民の逃散が多く、藩は困窮する領民に米を貸し出している。また、洪水や津波、凶作などの天候不順に見舞われている。

宝暦6年中には「他国商為替銀貸付会所」を設立している。

宝暦6年(1756年)1月22日、飛騨郡代支配下の幕府領丹生郡本保村にて本保騒動が起こり、26日には鯖江藩と共同で鎮圧のために出兵している。大きな騒動は収まったが、その後も越前国内は不穏な動きが相次いだ。

脚注

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注釈

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  1. ^ 下記の参考文献では、はっきり「養子」と記した出典がなかった。
  2. ^ 一般には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第9代となる[要出典]
  3. ^ 「昌」の字は3代藩主・忠昌とその長男・昌勝、五男・昌親(第5・7代藩主)および昌勝の子たち(6代綱昌、9代宗昌、8代昌邦(吉邦)ほか)などが用いたことのある越前松平家(福井藩主家)の通字である。

出典

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参考文献

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  • 「徳川幕府家譜 乾」『徳川諸家系譜』 第一、続群書類従完成会、1970年7月30日。NDLJP:12211158  
  • 「御系譜(尾張家)」『徳川諸家系譜』 第二、続群書類従完成会、1974年8月30日。NDLJP:12211157  
  • 『徳川諸家系譜』 第三、続群書類従完成会、1979年3月25日。NDLJP:12207381 (要登録)
  • 「家記(福井松平)」『徳川諸家系譜』 第四、続群書類従完成会、1984年12月5日。NDLJP:12209719  

外部リンク

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